なぜ手塚治虫は野球漫画を描かなかったのか?
石森章太郎(当時)が『ジュン』でマンガのコマ割りを破壊すると、手塚は「あんなのはマンガじゃない」と激怒した(直後に石森に謝罪)。
梶原一騎原作の劇画が爆発的ヒットを飛ばすと、『巨人の星』の単行本を机にドンと積み、「これのどこが面白いのか教えてくれ」と血走った目でアシスタントに訊ねた。
『AKIRA』が若者の間で持てはやされると「僕だってああいうの描けるんですよ!」。
手塚賞に入選した新人の荒木飛呂彦にパーティーの席上で「あともう一本!あともう一本見せて!」と食い気味に迫った。どんなに年齢が下でも、手塚治虫は新しい才能に対して嫉妬を隠そうとしなかった。
その手塚が手を出さなかった唯一のジャンル、それが野球マンガだった。手塚はどうして野球を描かなかったか? アホで頭の悪い中学生の僕はその答えを知っていた。
水島新司がいるからだ。マンガの神様をもってしても、野球マンガに関しては水島新司に敵わないとわかっていた。
『ドカベン』がプロ野球編を経て、最終章の最終回、つまり終わりの終わりを迎えてから2年が経過した。
残念ながら僕は『ドカベン』のプロ野球編以降はそれほど熱心に目を通していない。夢中だったのは『ドカベン』『男どアホウ甲子園』『野球狂の詩』『一球さん』『ダントツ』『球道くん』という、他誌で連載していた水島マンガのキャラクターを全員集合させて高校3年夏の甲子園で対決させた『大甲子園』までだ。
『大甲子園』の準決勝、『ドカベン』の明訓高校対青田高校の試合は優に1000ページを超えた。おそらく野球マンガ史上、いちばん長い試合だろう。
週刊チャンピオンで1年以上にわたって熱戦が繰り広げられた。しかし思いっきりシビアなことを言うが、その『大甲子園』も当時44〜48歳だった水島新司のストーリーテラーとしての輝きにうっすら翳りが差し掛かろうとしていた。
何が言いたいかって? 要するにですね、脂が乗っていた30代の水島新司は最高に凄かったってこと。
野球が死ぬほど好きで、野球を観るだけでは飽き足らず、野球マンガを描き続けて、おまけに草野球でもピッチャーをやっていた。生粋の野球クレージーの水島新司は、野球をステージにして人間ドラマを描く天才の中の天才だった。
『野球狂の詩』は物語の教科書だった
いま僕の手元に『野球狂の詩』全17巻がある。1973〜77年、水島新司が34〜38歳までの不朽の名作である。
架空のプロ野球球団東京メッツを舞台に、岩田鉄五郎(53歳現役ピッチャー)、水原勇気(プロ野球初の女性選手)、国立玉一郎(歌舞伎役者)、エース火浦といった所属選手だけでなく、その家族やフロント、裏方、記者、審判、刑事や任侠といったファンまで、愛すべき野球狂たちを描いた。
回によっては乞食(現在流通している版では言葉を直されているのではないか)、ケニヤのマサイ族、ゴリラまで打席に立たせた。ちなみにゴリラに関してはのちに韓国映画がまんまパクった。
水島新司は少年マガジンで本作を描きながら、チャンピオンで『ドカベン』を、ビッグコミックオリジナルで『あぶさん』を連載していた。ね? マンガの神様だって野球マンガでは勝ち目はないと思って当然でしょう。
引っ越しを繰り返し、1万を超える本を処分してきた僕だが、『野球狂の詩』は手放さずにきた。だって物語の教科書だから。
作家志望の方に告ぐ。『野球狂の詩』と『人間交差点』(この連載のvol.10で取り上げた)を読んで、キャラクターの特徴と相関図、そしてストーリーを箇条書きでノートに纏める作業をやってみて下さい。すごく勉強になりますから。
『野球狂の詩』は4〜9巻がピーク。
球場でスリをして生計を立てる親子の「スチール100円」。これと比べたら『万引き家族』など子ども騙し。
「モビー・ゴッド」は神回なんて言葉では生易しい。神話レベル。「鉄五郎のバラード」は絶対泣く。「熱球 白虎隊」「メッツ本線」は名作。
あのとき『ドカベン』は単なる野球マンガを超えた
『ドカベン』の話もしておこう。
ご存知のように『ドカベン』は主人公の中学生山田太郎の柔道マンガとしてスタートした。暴君キャラの岩鬼は最初からいて、いつしか野球に切り替わり、トリッキーな殿馬が加わり、明訓高校に進学して、“小さな巨人”こと里中が入ってからドライブがかかった。
不知火、雲竜(のちに力士に転向。そして野球に復帰)、土門など数々のライバルが現れたが、ピークは高2の春、犬飼兄弟率いる高知の土佐丸高校との死闘であることは、全国の『ドカベン』マニアも論を俟たないだろう。
試合中に回想シーンとして、主要人物の暗部が織り込まれていく。
建設会社の御曹司に生まれながら家族の愛に恵まれなかった岩鬼。身長が低いハンデを持つ里中。バス事故により親を亡くした山田太郎。一度はピアニストの道を断たれた殿馬。彼らのバックストーリーはとても涙なしでは読めない。あのとき『ドカベン』は単なる野球マンガを超えた。
『ドカベン』はずっと傑作であり続けるのだと思っていた。
が、しかし。『ドカベン』は、山田たちが高2の夏の2回戦、弁慶高校に負ける。不敗神話が崩壊する。あのときの衝撃をどう伝えたらいいのか。スポーツ新聞の広告に「明訓敗れる!」とうたう見出しに反応した母親に、「たけひろ、チャンピオン買っておいで!」と金を渡され近所の本屋から戻るや読み耽り、負けが決まったページは、家の風景ごと脳裏に焼き付いている。
「明訓を負けさせてはいけなかった」と、20年以上経った後、水島新司は週刊プレイボーイのインタビューで語った。そうなのだ、『ドカベン』は明訓高校が初敗北を喫するや一気にテンションを落としていく。集中力を失う。
水島は「リアリティに走るべきではなかった」とも言った。ありえないほどの人気の急降下を感じたのだろう。ジャンプとマガジンとタメを張っていたチャンピオンの部数が落ちていったのもこの頃からではないか。
紙幅が近づいてきた。そろそろ纏めよう。
ちょっとキツい言い方をしてごめんなさい。でも僕に野球の魅力を最大限に教えてくれたのは、王長嶋ではない。世代ドンピシャのKK(桑田・清原)でもない。水島新司先生だ。
あーこれでもまだ全然言い足りない。実在の野球選手でなく、漫画家を挙げるところが、アラフィフになってもアホな文化系の自分らしいなあと思う。
水島新司先生バンザイ! コロナ禍により今年の夏の甲子園が無くなったきょうこの頃。そんなことを考えていました。
文=樋口毅宏
『散歩の達人』2020年8月号 連載「失われた東京を求めて」より(単行本未収録)