明治神宮は、明治天皇とその皇后である昭憲皇太后を祀っている。明治45年(1912)7月30日に明治天皇が崩御されると、御陵は京都の伏見桃山につくられたが、東京にも何かしらのよすがを、という声が多く上がり、おふたりの御霊を祀るための神社として創建された。大正9年(1920)11月のことである。都心にあってアクセスもしやすく、例年、初詣では日本一の参拝者数を集める神社として名が知られているわりには、その成り立ちは案外知られていない。
明治神宮総務部広報調査課の福徳美樹さんに、お話を聞いた。
「神社がある内苑と、神宮球場やイチョウ並木、聖徳記念絵画館などがある外苑とセットで明治神宮なんです。内苑は鬱蒼とした森のなかに神社がある日本的な風景、外苑はシンメトリーなイチョウ並木で西洋的な印象をもたせています。まさに明治という時代を象徴するようなつくりとなっているんですね」
武士が支配していた江戸時代が終わり、開国をして西洋の文化をどんどん取り入れていくようになったのが、明治時代。天皇は京都から居を移し、都を東京に定め、近代国家へとあゆみ始める。政治や経済、生活スタイルまですべてが激動の時代だ。さまざまな分野で、日本的なものと西洋的なものが混ざり合い、独自の文化が生まれた時期を体現しているのが、明治神宮といえるだろう。
何もない原野に国民の献木で森をつくる
候補地はいくつかあったが、代々木の地が選ばれたのは、明治天皇と昭憲皇太后にとってゆかりが深かったからだ。
「江戸時代、このあたりは井伊家の下屋敷で、明治になってからは南豊島御料地(皇室の所有地)でした。現在、境内の一角にある御苑は、かつて明治天皇が訪れ、たいへん良いところなので皇后が散策できる場にしようと、自ら設計図に手を入れられたと言われています。隔雲亭(かくうんてい)という御休所を建て、水源として清正井(きよまさのいど)がありましたから、花菖蒲(はなしょうぶ)を植えさせられました。皇后は何度も足を運ばれて、池で釣りをなさったり、散策をされた記録が残っています」
とはいえ、御苑の周辺は何もない原野だった。ここに神社を建てようとなったときに、それを囲む森が必要だろうということになる。庭園ではなく、森だったのは、日本人の神や自然への意識からくるのではないかと福徳さんは話す。
「日本人にはもともと、山そのものに神様が宿るとか、大きな木や巨石に神様がおりられるといった自然観がありますよね。そこから鬱蒼とした鎮守の森が必要なのではないか、ということになったのだと思います」
こうして明治神宮の森は、人の手でつくられることになる。目指したのは、自然の力で更新していく永遠の森。
永遠に続く森を目指す
植える木々はほぼ献木でまかなった。木の奉納を呼びかけたところ、国内はもちろん、サハリンや台湾から約10万本の木が寄せられたという。若木だけでなく、なかには村自慢の名木といった大木もあり、輸送には鉄道が使われた。原宿駅から境内まで引き込み線を敷き、当時の鉄道・汽船各社は献木の運賃を5割引きにしたという。植樹作業にあたったのは、のべ11万人の青年奉仕団だった。
森をつくるにあたっては、林学・造園学を専門分野としていた、本多静六、本郷高德、上原敬二の三人が設計を担当。当時の内務大臣、大隈重信は日光の杉並木のような荘厳な針葉樹の森を主張したが、三人はこの地で長く育つ森にするためにはカシ、シイ、クスなどの常緑広葉樹にすべきと主張した。
「杉は、水がふんだんにないと育たないらしいのです。目指していたのは人の手を入れずに永遠に続く森ですから、この地に杉林は適さない。林苑計画書というものが残っていますが、それによると、はじめは背が高い針葉樹を風致林として、下の方の広葉樹が育つのを待ち、最終的には針葉樹が淘汰(とうた)されて常緑広葉樹の森になると予想されていました。2020年で100年を迎えますが、予想よりちょっと早い状態で育っています」
明治神宮の森は、自然の力だけでの成長を見守るため、参拝者に危険が及ばない限り木の手入れはしない。だが、落ち葉を掃除する「掃き屋さん」がいる。
「掃き屋さんは数人いて、それぞれ担当の区域が決まっています。場所にあったほうきを自作していて、たとえば広い参道で使うものは柄を長く、穂先の部分は薄く広くして、さあっと風を送るように一気に掃く。でもそれだと、参拝者が多い御社殿周りなどでは邪魔になるので、短めのほうきを使います。ちりとりは、うちの宮大工さんがつくっているんですよ。集めた落ち葉はカゴに入れて運び、そのまま森に返します」
創建当初から落ち葉は捨てずに森へ返しているため、土は相当よい具合にふかふかになっている。ゆえに、昭和20年(1945)の東京大空襲で爆撃を受けたときでも社殿は焼失してしまったが、森に落ちた焼夷弾は土のクッションで爆発しなかったという。積み重なった落ち葉と瑞々(みずみず)しい樹木のおかげで、火が燃え広がることもなかったのだ。空襲の際、近隣の人々がこの森に逃げこみ、難をのがれたという。
100年の森を歩いて楽しむには
森の木々の手入れはしないとはいっても、本殿へ至る参道のつくりや風致的な工夫がないわけではない。ぜひとも境内を散策してみよう。
「原宿駅から鳥居をくぐって南参道に入ると、ゆるやかな下り坂になっているので気持ちよく入っていくことができます。途中、神橋という石造りの橋がありますが、下には清正井からくる水が流れ、紅葉する木が植えられていたり、石を配置したりしているので、自然の渓谷のような眺めです。ぜひ立ち止まってみてください。すこし先には、代々木の地名の由来となったといわれるモミがあります。昔からこの地には代々、モミの大木が育ったというものです。
しばらく行くと北参道と合流して正参道になりますが、実はそれぞれ人の流れを考えて道幅が違います。参道は少しかまぼこ型でわきに水が落ちるようになっているんですよ。」
「正参道の入り口には高さ12mの日本一の大鳥居。現在2代目で、台湾の山奥から運んできた大木の台湾ヒノキを使った、塗りをしない素木の鳥居です。人の背の高さくらいにすこし割れ目があるんですが、ここに鼻を寄せてみるといまも香りがします。また、よく見ると、柱の表面に縦に筋が入っているんですね。質感がつるつるじゃなくて、でこぼこしてる。遠くから見ると陰影がついて美しいといわれています」
内苑の中心となるのは本殿だ。見過ごせないのは、本殿に向かって左の「夫婦楠」。創建当初からこの場所に立つ御神木である。2本の巨木が寄り添った見事な樹形で、どこから見ても完璧な美しさだ。この木ばかりは専門の職人さんが剪定(せんてい)していて、命綱をつけて木に登り、形を整えているという。
西参道のほうへ向かうと、森を抜けて原っぱが広がっている。ここには、四方八方に幹を伸ばし、参道をまたいで枝が広がる「たこ足の楠」がある。生命力があふれる姿は、一見の価値ありだ。西の出口の脇には、明治神宮をつくる前からこの地にあったムクノキがあり、木を除けて石垣がつくられていて、先人たちはここまで木を大事にしたのだと感じ入る。
2020年で創建100年を迎える明治神宮の森は、いまや人工の森とは思えぬほど樹木が生い茂っている。この森には、鳥、昆虫、粘菌にいたるまで、さまざまな生きものが暮らしている。
「各地からの献木には根の土に付いた種や草、生きものたちも一緒にやってきたはずで、この地でも生きられたものたちが100年前のタイムカプセルのように生き続けているんだと思います。鎮座百年記念として2014年に境内総合調査をしました。境内のすべての木と、生息している生物を調べたところ、絶滅危惧種が何種もいることがわかったんです。皇居と明治神宮だけで見つかったカタツムリの新種もいました。約3000種の動植物が確認され、多様性に富んでいることがわかりました。それだけ、この森が大切に守られてきたのだと思います。」
境内を歩いていると、あちこちで音がする。鳥の声、ドングリが落ちる音、風に吹かれる広葉樹の葉音。季節や天気によって違う音が森の中に響いているはずだ。
「毎日来ても、天気や時間、太陽の角度によって風景は変わってきます。頻繁に参拝する方も、日々の違いや森の息吹を感じていらっしゃるんじゃないでしょうか。個人的には、春先、新芽が出てきて若葉になり青葉になっていくときが、やはり気持ちが明るくなります。一日たりとも同じ景色はありません。」
都心の喧噪(けんそう)のなかにあって、四季のうつろいを感じられる貴重な場所である。
『明治神宮』詳細
取材・文=屋敷直子 撮影=オカダタカオ 昔の写真・図版提供=明治神宮