さて第1回目は、渋谷。東急東横線の廃線跡を紹介します。駅と駅前の再開発が著しく、次々と建物が建っていく地域にポツンと残されたものを探すのは困難ですが、探せば「こんなところに」というものがあります。
東横線は2013年3月に高架駅から地下駅へと移動しました。渋谷〜代官山間の高架橋はあっという間に更地となり、その跡地は東急の手によって活用され、一部が商業ビルとなりつつ、遊歩道として整備されています。東横線跡は、いわば10年も経過していないホヤホヤの廃線跡なので、朽ちていく美しさ侘しさはありません。ただの遊歩道となった廃線跡ですが、面白いことに高架橋の痕跡が至る所に残存しているのです。
東横線高架駅跡地に建った高層ビル「渋谷ストリーム」から、廃線跡の遊歩道が続きます。いくつかショップを過ぎると、いきなりニョキッと柱が二本突っ立ってます。柱には「31」「32」と数字が振られ、なんのモニュメントだこれは?と、頭に「?」が浮かびます。実はこの柱が高架橋の名残なのです。数字は渋谷駅から数えた柱の番号だとか。
これは東急が遊歩道へと整備する際に、高架橋の一部分をわざわざ残したとのことで、歩いていくと高架橋の土台部分だけが残され、ポツンポツンと点在しています。また地面にはレールを模した2本の線もあり、なんとなく「ここに鉄道があったんだなぁ」と匂わせます。
高架橋の部分やレールなどがあちこちに点在しながら、よく巷の廃線跡にあるようなデカデカとした説明板は無く、一見して何が何だか分かりません。
私のような鉄道好きや廃線跡好きならばすぐピンときますが、この遊歩道を利用する人のどれだけが気付くのだろう?
とはいえ、しつこく「廃線跡です」とアピールするより、高架橋の土台が転がっている姿は、なんかいいなぁと思うのです。無言で語りかけてくる遺跡のような感じがして。
歩行者に「これはなんだ?」という謎を与えるのも楽しい。
遊歩道が整備されて数年が経ち、草も成長してきて、一部の場所は土台がだんだんと草に埋れてきて、いよいよ遺跡っぽく見えてきます。東横線遺跡。もっと草木が成長すると、遺跡感が増してきそうなので、これからの成長が楽しみです(笑)。
廃線跡の遊歩道を戻ります。今度は「渋谷ストリーム」の脇を歩き、目の前に国道246号線と首都高が見えたら左折。「渋谷ストリーム」と駅を結ぶ歩行者用歩道橋の下を歩きます。
実はこの歩道橋、東横線の高架橋をそのまま使っているのです。
国道を覆う橋桁と橋脚は、大部分が当時のものを再利用し、現在でも人々の往来を支えています。橋桁や橋脚の形状は変化なく、周囲が再開発で激変していくなか、ここだけ時が止まったかような空気が流れています。
さらに、歩道橋には「カマボコ屋根」と呼ばれた東横線のホーム屋根が再現されており、ちょっと遠目に見たら東横線の電車がいそうな錯覚を覚えます。つい7年前(2013年)のことなのに、懐かしい光景だよなぁと思ってしまうのです。カマボコ屋根は当時より素材が変わって透明感が増しましたが、たしかにここに横浜行きの電車がいたのだと、思い出させてくれます。
もう一度、歩道橋下に目を落とします。国道の歩道から残存した橋脚を見ていると、足元に四角いマンホールがあります。このマンホール、何やら社紋が刻印されているのですが、「レール断面に両翼」という、何やら見慣れない社紋があります。
これは「大東急」と言われた時代の東京急行電鉄の社紋なのです。
まだ残っていたのか……。
1942年、陸上交通事業調整法により、京王、小田急、京急をはじめ、鉄道やバス、運送会社が東京横浜電鉄と合併。東京急行電鉄として誕生しました。多くの会社が合併したことから「大東急」と呼ばれたのです。その後、1948年に再び京王、小田急、京急などが分離しました。この社紋は、大東急誕生から1973年まで使用されたものです。
マンホールが設置されたのは戦時中か戦後か分かりませんが、半世紀以上はこの場所で現役だということになります。「廃なるもの」というより、いまなお現役と言ったほうがいいか……。何に使用されているのかは定かではないですが、以前この場所の裏、すなわち「渋谷ストリーム」の場所には東急東横店東館の搬入口がありました。搬入口は国道の地下を通って東横店東館へと繋がっていたので、それと何かしらの関連があるのかもしれません。
渋谷駅の東横線跡は、ビルや道路へと埋れていく廃線跡が多い中にあって、遺構が「あえて残されている」都市の廃線跡です。まだ高架橋が廃止になってから月日が浅いですが、これが10年20年と続くと経年による変化が生じ、いい味わいとなっていくことでしょう。
取材・文・撮影=吉永陽一