東京の老舗酒場
東京の老舗酒場といえば真っ先に思い浮かぶのが、神田の『みますや』と、根岸の『鍵屋』。みますやは創業が明治38年で、建物としては東京最古といわれている。一方の鍵屋は、さらに江戸時代まで歴史がさかのぼる。
安政3年(1856年)に酒問屋として創業し、店の一角で酒を飲ませるようになったことに端を発して居酒屋となり、その場所で昭和49年まで営業。その後、大正元年築の日本家屋を改装した現在の店舗に移転。旧店舗は、その歴史的価値ゆえ、東京都小金井市にある『江戸東京たてもの園』に移築して保管され、今でも見学することができる。
ただひとつのルール
鍵屋には、ひとつだけ守らなければいけない決まりがある。それは、ひとりでも、グループでも、女性だけでの入店は禁止というもの。そのルールが入店のハードルを上げてしまっているようにも感じるが……。
「時代に合わないなぁと思うんだけどね、先代の女将の遺言なんですよ。これだけは変えるわけにはいかない。その代わり、例えば女性が6人いたって、男の人をひとり連れてきてくれれば大丈夫だからね。うちはそんなに気取った店じゃないんだ。それこそ、小瓶のビール1本と何か1品だけつまんで帰ってくれたって、まったくかまわないですから」(大将)
江戸のある時期から、酒問屋は、店の一角に必ず客に酒を飲ませるスペースを作ったのだという。いわゆる『角打ち』だ。それが現在の居酒屋の原型であり、つまりは、鍵屋は居酒屋の歴史そのものとともに歩んできた貴重すぎる店であるということ。そんな場所で実際に飲めること自体がありがたすぎる。
名人の燗酒
さて、先ほどは「ビール1本でもいい」なんて言われていたが、ここに来たら大将の名人芸から生み出される「燗酒」をぜひ味わいたい。
酒は『菊正宗』『櫻正宗』『大関』の3種類のみで、大将いわく「どなた様の口にも合うように作られているものを厳選している」とのこと。どれも辛口だが、中では甘めだという『櫻正宗』のお燗を、勝手に鍵屋の定番のように思っていて、個人的に好きだ。
銅壺(どうこ)の燗付け器の中は温度が一定でなく、手のひらで様子を見ながら移動させることによって、すべてを均一にお燗するというわけだ。
ゆっくりと燗酒を口に含むと、ほわりと心が溶けてしまいそうな温かさが広がる。日々の細々とした悩みや苦労が、すーっと溶けてゆくようだ。これぞ至福の時間……。
くりから焼きとは、細長く切った身を巻きつけるようにして焼いたウナギの串焼きのこと。その姿が、不動明王の持つ剣「倶利伽羅龍王」に似ていることに由来する。蒲焼きとは違ってプリプリとした弾力が楽しめ、甘さ若干控えめのさっぱり味が、燗酒に絶妙にマッチする。
さらに幸せな時間を満喫
左から、コンニャク、ちくわぶ、焼き豆腐。甘く濃厚な味噌からは、旬の今がもっとも香り高いという柚子の香がふわり。たまらない。
少しだけ勇気をだせば、こんな空間で飲むことができるという贅沢。
同じく名物『煮奴』は、『とりもつなべ』のダシを無駄にせず豆腐にじっくりと吸わせた、豆腐好きとして外せない一品。くたくたの玉ネギと少し入る鳥もつも嬉しい。小皿に取り、別皿の深谷ねぎと七味唐辛子をたっぷりとかけて口へ運び、また燗酒で追いかける……。
鍵屋のたたみいわしで酒を飲めば、誰もが大人への階段を一歩登れる気がする。
大将からのメッセージ
「こういう店に興味がある若い人へアドバイス?う~ん……男はみんな照れ屋だからね(笑)。恥ずかしがるなっていっても無理だよね。よく、近くにある東京芸術大学の先生が学生さんを連れてきてくれるんだけど、もしも今一歩勇気が出ないなら、そういう人生の先輩や、ご両親を誘って来てみるのもいいかもしれない。ただね、うちには大学生のお手伝いさんが10人くらいいるんですよ。そんな店だから、ぜひ気軽に寄ってみてください」(大将)
大将、女将さん、ごちそうさまでした!
取材・文・撮影=パリッコ