【霞ケ関・虎ノ門・赤坂の切絵図】
今井谷六本木赤坂絵図
赤坂という地名は、江戸時代に呼ばれるようになったという。赤土の坂、アカネが群生した坂、染物屋が赤い絹を干していたなど諸説ある。武蔵野台地の東端に位置し、大名の中屋敷、下屋敷、旗本屋敷などが並ぶ武家屋敷の町だった。
『忠臣蔵』の舞台になっていることでも知られる溜池と、「松平美濃守」の屋敷前の「南部坂」は、名場面でもある「南部坂雪の別れ」に登場。切絵図の中央部に描かれる「氷川神社」が建立される前は、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の正室・瑤泉院の実家である三好藩(現・広島県)の屋敷だった。
江戸時代は町家が少なかったが、明治時代以降に都内有数の山の手住宅地になり、勝海舟も晩年を過ごした。
※掲載の古地図は、江戸の町を32区画に分割して作った切絵図を使用。すべて、麹町にあった金鱗堂が出版したもので、屋号である尾張屋清七から「尾張屋板(版)」と呼ばれる。鮮やかな多色刷りが特徴。
※切絵図内の白色の部分は【大名屋敷などの武家地・御用地】、赤色は【神社仏閣】、灰色は【町屋】、黄色は【道】、青色は【海・川・池】、緑色は【山林・土手・馬場・田畑など】を示している。
【散歩コース】
スタート:溜池山王駅は地下鉄銀座線で渋谷駅から10分・180円、地下鉄南北線で目黒駅から13分・180円。溜池山王駅は地下鉄丸ノ内線・千代田線の国会議事堂前駅と隣接する。
地下鉄銀座線・南北線溜池山王駅→(2分/0.1㎞)→溜池発祥の碑→(6分/0.4㎞)→溜池櫓台跡→(2分/0.1㎞)→金刀比羅宮→(5分/0.3㎞)→仙石伯耆守邸跡→(8分/0.5㎞)→陽泉寺→(12分/0.8㎞)→勝安房邸跡→(2分/0.2㎞)→南部坂→(3分/0.2㎞)→赤坂氷川神社→(8分/0.5㎞)→報土寺→(5分/0.3㎞)→圓通寺→(3分/0.2㎞)→鈴降稲荷神社→(5分/0.3㎞)→地下鉄千代田線赤坂駅
ゴール:赤坂駅から地下鉄千代田線で大手町駅まで11分・180円。
今回のコース◆約3.9km/約1時間5分/約5200歩
江戸城防御と上水道を兼ねた「溜池発祥の碑」
溜池は江戸城の防御を兼ねた外堀と上水源として造られ、江戸の水道の発祥地になっている。徳川2代将軍秀忠の時代にはコイやフナを放流し、ハスを植えて江戸の名所となった。3代将軍家光が遊泳していたとも伝わる。
「溜池発祥の碑」詳細
江戸城外堀に設けられた隅櫓跡「溜池櫓台跡」
江戸城外堀に3つあった隅櫓(すみやぐら)の一つで唯一石垣が現存。鳥取藩主・池田光仲によって造られたという記録が残る。小田原道が通り、溜池上水の起点にもなっていて、防御と都市政策の重要な地だった。
「溜池櫓台跡」詳細
江戸時代に奉納された銅製鳥居「虎ノ門 金刀比羅宮」
丸亀藩主の京極高和(きょうごくたかかず)が金刀比羅宮の御分霊を虎ノ門の地に勧請したのが始まり。文政4年(1821)に奉納された銅鳥居の柱上部には四神の彫刻がある。社殿は都の歴史的建造物に指定。
「虎ノ門 金刀比羅宮」詳細
赤穂浪士が自首した大目付邸跡「仙石伯耆守邸跡」
元禄15年(1702)、赤穂浪士が吉良邸に討ち入り、主君の無念を晴らした。泉岳寺に向かう途中、大石内蔵助(おおいしくらのすけ)の命で2名の義士が大目付・仙石伯耆守邸を訪れて自首。捕縛を覚悟したが、仙石は手厚くもてなしたという。
「仙石伯耆守邸跡」詳細
赤坂の大使館街にたたずむ「陽泉寺」
元和年間(1615~1624)、江戸幕府大御番勤務である伴右兵衛(陽泉寺殿心翁道安)により開基。現在、周囲はオフィス街で、大使館やホテル、高層ビルが立ち並び、重厚感のある本堂と新旧の対比が面白い。
「陽泉寺」詳細
勝海舟と坂本龍馬の像が立つ「勝安房邸跡」
江戸城無血開城に尽力した勝海舟(勝安房守)は、赤坂で3度転居し、この地には明治5年(1899)、50歳のときに引っ越して77歳でなくなるまでの終の棲家とした。坂本龍馬が勝を師と仰いで慕っていたこともあり、碑の前には2人が並んだ銅像が立っている。
「勝安房邸跡」詳細
『忠臣蔵』の名場面はココで! 「南部坂」
盛岡藩(現・岩手県)主・南部家中屋敷があったことに由来。『忠臣蔵』で大石内蔵助が浅野内匠頭の正室・瑤泉院に別れを告げた「南部坂雪の別れ」の地としても有名。
「南部坂」詳細
浅野内匠頭切腹後に正室が住んだ「赤坂氷川神社」
三次藩浅野家の下屋敷があったところで、浅野内匠頭の死後に瑤泉院(ようぜんいん)が過ごした。神社は1000年以上の歴史があり、享保15年(1730)にこの地に移転。社殿は徳川8代将軍吉宗の命で建立された。
「赤坂氷川神社」詳細
江戸時代最強といわれる力士が眠る「報土寺」
戦国大名・朝倉義景の子孫が開基。松江藩松平家の菩提寺で、藩のお抱え力士だった雷電為右ヱ門が住職と親交があった縁で雷電の墓がある。墓前には雷電が手玉に取ったという「三十貫匁」と刻まれた石がある。境内には雷電の手形を掘った石も。
「報土寺」詳細
「十二支の鐘」ともいわれる梵鐘「圓通寺」
日蓮宗の寺院。境内にある「時の鐘」には、僧で漢詩人であった日政の筆による十二支の文字を冠にした漢詩が刻まれている。落語『景清』の舞台としても知られる。
「圓通寺」詳細
家康の伊賀越えの逸話が残る「鈴降稲荷神社」
本能寺の変が起こり、徳川家康が三河へ逃れる際に、伊賀(現・三重県)の観音堂で神託のある3つの鈴を受領し、無事帰還した。その後、四谷に伊賀領民を住まわせ、鎮守杜として創建。元禄8年(1695)に現在地に遷座。
「鈴降稲荷神社」詳細
取材・⽂・撮影=アド・グリーン
『古地図であるく 大江戸散歩地図』より







