昭和そのものの姿の大衆食堂
隅田川の風にはためく食堂のノレン——。
「久々にあれが見られる」と、両国駅から数分、右手に国技館を見ながら隅田川沿いを北へ進む。やがて見えてきた、ひらひらとゆれるノレン、そこに染め抜かれた「下総屋食堂」の文字。
早速ガラガラと引き戸を開けると、コンクリのたたきにテーブルが並ぶ。この構えよ。もう、純然たる、美しい大衆食堂。私が子供のころはあちこちに見かけたこうした食堂、いまや都内ではほとんど見かけなくなってしまった。
昭和7年(1932)に創業し、スクラップ&ビルドの激しかった高度成長期、バブル期にも同じ姿のまま商売をやり続けて現在を迎え、昭和そのものの姿に令和の今も出会わせてくれる奇跡。
奇跡ぶりは、この立地を考えると、より際立って感じられてくる。
建物自体は関東大震災後ほどないうちに建てられ、土壁と板張りを替えたくらいで、ほかはほぼ昔のままというが、なによりここは両国。戦争末期、昭和20年(1945)3月の東京大空襲でもっとも大きな被害を受けた地域である。私も両国生まれの被災者の証言を聞いたことがあるが、一帯は猛火に包まれ、多くの方が命を落とし、建物は焼かれてしまった。この店にも炎がたった120m前にまで迫りながら、間一髪で焼かれなかったという。
店の開業と同年生まれの女将さん
そんな奇跡の食堂で、今日も一番奥のテーブル席に腰掛け、入り口のほうを向き、笑顔でお客さんたちを出迎えている女将・宮岡恵美子さん。御年93。奇しくも店の開業とおなじ昭和7年(1932)生まれ。女将さんにお会いできることもまた、うれしい奇跡のひとつ。
じつは数年前に伺ったときはお元気そのものだったが、その後、大病をして休まれていると風のたよりで聞き心配していたのだ。だが復活されてこの日は変わらぬ笑顔を見せてくれ、ことのほかうれしかった。
「口だけは病気にならないものね」
冗談も冴え、衰え知らず。
1954年に横浜から両国に嫁いできた女将さん。その頃は、夫や舅(しゅうと)さんたちも健在で、家族で切り盛りしながら、昭和40年代ごろまでは、丼もの、揚げ物、刺し身に麺類まで出す食堂であった。現在は、木製の渋みあるショーケースに並んだ数々のおかずから好きなものをとるスタイル。息子さんと女将さんの2人で今は店を回している。いずれにしても王道の大衆食堂である。女将さんは笑う。
「めしや、ね」
なんといい響き、めしや。
店内に掲げられた「東京都指定民生食堂」の文字
——さあ、さっそく自分好みの「めし」にしよう。
今日はナス、煮魚、おひたしを選ぶ。おどろくなかれ、総菜は“二百円”、魚は“三百五十円”。ほとんど値上げせずに長年やられている。最後にライスとみそ汁を頼んで、自分好みの定食完成。煮物なんて白飯をかきこむにちょうどいい甘じょっぱさ。あっという間に茶碗が空になる。ずずっと濃い目の味噌汁をすすりこんだあたりで、目に飛び込むショーケース上に掲げられた文字列。
「東京都指定民生食堂」
これは昭和戦後期、低所得者が安価に高栄養の食事をとれるように都が指定した食堂を言う。最盛期は500軒ほどもあったというが今はむろんそんな制度はないし、この名を掲げる店もほとんど残っていないだろう。
『下総屋食堂』は、戦後の庶民の食の歴史の一端を今も伝え続ける店でもあるのだ。女将さんはその生き証人と言っていい。さらには、民生食堂の前の時代にもさかのぼっていく——。
取材・文・撮影=フリート横田






