三ノ輪駅から旧金杉下町をたずねて
本誌の連載漫画「水と歩く」では地下鉄日比谷線三ノ輪駅からスタートしているが、実際の取材ではシェアサイクルで南千住駅に向かい、駅の駐輪場に停めてから三ノ輪駅まで歩いてきた。南千住駅から吉野通り(都道464号)を南下し、泪橋交差点で明治通りに出てしばらく進むと三ノ輪駅だ。
明治通りを南東に少し歩き、そのまま進むと土手通りとなり、明治通りは左へ分かれて東の墨田区の方へと続いていく。この土手通りと明治通りが二股に分かれる地点の少し手前で一本わきに入ると台東区立東盛(とうせい)公園がある。この公園のある周辺一帯がかつての金杉下町だ。以前PR誌『ちくま』に書いた『一銭五厘たちの横丁』についてのエッセイのためにこの辺りを歩いた時には、公園の隣の東泉小学校から子供たちの元気な声が聞こえてきた。今回の取材は週末だったため、校舎からではなく公園の遊具のまわりから子供たちの声が聞こえた。
三ノ輪1丁目から碁盤の目状の町割に沿って南に歩くと、やがて竜泉3丁目に入る。〇〇製作所、〇〇工業といった町工場や、住宅、マンションが並ぶなか、ちらほらホステルなどの宿泊施設も見かけ、ときおり観光客と思しき人たちとすれ違う。
ジョーと見返り柳が立つ土手通りをゆく
竜泉3丁目で土手通りに出て、山谷堀を目指して南へ進む。「土手通り」の名称はもともとこの場所にあった「日本堤」に由来する。日本堤は江戸幕府が隅田川の出水による被害を防ぐために築いた堤防で、昭和2年(1927)に取り壊されて現在の土手通りとなった。堤防そのものは失われたが、日本堤の名前は土手通りの東側に町名として現在も残っている。現在の土手通りもよく見てみると道の中央が少し高くなっているように見える。
そのまま土手通りを進むと突然、視線の先に漫画『あしたのジョー』の主人公・矢吹丈が現れる。このフルカラー着彩の矢吹ジョー像、正式名称を「立つんだ像」と言うらしい。葛飾区の『こち亀』や『キャプテン翼』のキャラクター像のように、台東区でも矢吹ジョーの他にマンモス西や金竜飛、カーロス・リベラの像も建てたらいいのにと一瞬思ったが、浅草周辺にこれ以上観光資源を増やす必要はないことに気づいた。
土手通りを歩いていると向こう側に人が集まっているので何かと思ったら、大河ドラマの影響か、吉原大門交差点の「見返り柳」を見にきた人たちのようだった。
山谷堀に架かっていたかつての橋たち
見返り柳の前で土手通りを日の出会商店街方面に曲がり、すぐ右の道を進むとその先に山谷堀公園がある。それより手前の日本堤公園の脇に何やら橋の遺構のようなものが残っているが、周囲になんの解説版もないので気になって調べてみたところ、
「浅草smartニュース」というサイトの記事(http://asakusanews.com/erudition/9297)に日本堤橋ではないかと書かれていた。
日本堤橋の遺構らしきものからさらに南に進むと、公園として整備されて残る山谷堀の最初の橋、地方橋の親柱が立つ。
日本堤以南の山谷堀には北から日本堤橋、地方橋、地方新橋、紙洗橋、山谷堀橋、正法寺橋、吉野橋、聖天橋、今戸橋の9つの橋が架かっていた。『道路・橋梁考(台東叢書)』には「江戸時代の山谷堀関係橋梁は、嘉永6年(一八五三)版浅草絵図によると五橋あった。しかし、そのうち橋名が知れるのは、今戸橋・山谷橋・紙洗橋の三橋である」書かれており、山谷橋というのは現在の吉野橋で、この3つの橋が特に古い歴史を持つようだ。
2019年から山谷堀公園改造工事が行われ、今戸橋から地方橋までのおよそ700mの遊歩道が新たに整備された。山谷堀に架かる橋の親柱のうちいくつかも、以前は親柱ごと昔のままの姿で残されていたが、工事の際に親柱そのものを新たに造り替え、旧親柱の一部と橋銘板をそこにはめ込んで残す形となった。
元々の親柱の造形が失われてしまったのは残念だが、おそらくは親柱そのものの老朽化などの問題もあったのだろうし、親柱ごと撤去されてしまうよりは、このような形でも残っているだけ昔の姿を想像するよすがとなる。
山谷堀に架かる橋の中には地方橋、紙洗橋など個性的な名前を持つものあり、銘板を見ているだけでも楽しい。江戸時代の浅草周辺では古紙や紙屑を原料とした再生紙「浅草紙」が製造されており、「紙洗橋」の名前は浅草紙を製造する際の紙漉き作業に由来するそうだ。
今戸橋の記憶をたどり、隅田川に流れ着く
山谷堀公園に沿って歩き、吉野通りを渡ると右手に都立浅草高校の校舎が見えてくる。台東商業高校の校舎を引き継いで2006年に設置された単位制の高校だ。その浅草高校を左に折れ、少し進むと今戸神社がある。
康平6年(1036)に京都の石清水八幡を勧請して今戸八幡として創建、昭和12年(1937)に白山神社を合祀して今戸神社と改称した。境内には「縁結び」と書かれたのぼりが立ち、若い参拝者も多い。境内を歩いていると「今戸橋開橋記念」と記された石碑が立っていた。大正15年(1926)に竣工した今戸橋の完成を祝うものだろうか。石碑の文字をよく見ると「橋」の文字を1つめと2つめで字体を変えているのが良い。
今戸神社から再び山谷堀に戻る。遊歩道上に猪牙舟(ちょきぶね)を模したものが設置されていて、観光客と思しき男女二人組が腰かけて、次はどこに行こうかと相談していた。猪牙舟とは、舳先の尖った細長い小舟のことで、山谷堀では新吉原へ向かう男たちが利用していたという。スカイツリーとセットで撮影できるポイントとなっていて、この辺で写真を撮る人も多い。
ここから橋場通りまでが日本堤側からたどって来た山谷堀公園の最終区間(今戸橋から来ると最初の区間)で、公園の幅も広がり、正面に遮るもの無くスカイツリーが聳(そび)える。この区間には江戸時代~明治・大正にかけて今戸で製造されていた焼き物「今戸焼」を模したオブジェが設置されていて、福助や招き猫、狐がちょこんと座っている姿がかわいい。公園内に設置されている解説板の記述によると、現在も今戸焼を制作している所は台東区内には1軒しかないという。ちなみに私の住む葛飾区にもかつては今戸焼の生産拠点があったそうだが、現在は残っていないようだ。
今戸焼のオブジェを見ながら進むと今戸橋の親柱と欄干が見えてくる。欄干などの塗装は新しくなっているものの、昔の姿のまま残されているようだ。
橋場通りの向こうに山谷堀広場が広がる。山谷堀公園からまっすぐ渡って行けるといいのだが、待乳山の方にある横断歩道まで歩かなければならないのが少々億劫だ。堀の跡に沿って歩いてきたせいか、せっかくなら最後まで堀の上を進みたいという気持ちが芽生えてくる。
山谷堀広場を通って隅田川に出る。何かのクラブ活動か、川沿いを掛け声を発しながら走る子供たちとすれ違う。台東リバーサイドスポーツセンター横の緑道では観光客や地域住民たちが行き交い、それぞれに異なる時間が流れている。
少し下流の吾妻橋はいかにも観光地の橋といった感じで、対岸のアサヒビール本社ビルやフィリップ・スタルクの金のオブジェ、その向こうのスカイツリーを撮影する観光客の姿をよく見かけるが、言問橋を挟んでさらに上流にある桜橋は、もう少し日常の橋の姿をしていると感じる。自転車で向島の方から来る/へ向かう親子、ランニングをする人、サンダル履きのおばちゃんやおっちゃん、犬を散歩させるおじいちゃん、橋の上にいるほとんどが近所を出歩く時の格好だ。時折その横を観光客の振る舞いをする人が通り過ぎる。その塩梅が良い。
取材・文・撮影=かつしかけいた
【参考文献・URLなど】
児玉隆也著 桑原甲子雄 写真, 2025年6月,『一銭五厘たちの横丁』,ちくま文庫.
『エコノミーホテルほていや』ブログ, 2020年2月,「新吉原遊郭へ続く水上の粋な通い道 山谷堀」(2025年11月17日参照).
http://hoteiya.blog47.fc2.com/blog-entry-1009.html
『エコノミーホテルほていや』ブログ, 2022年8月,「土手通りを歩く歴史散歩」(2025年11月17日参照).
http://hoteiya.blog47.fc2.com/blog-entry-1071.html
『エコノミーホテルほていや』, 2018年4月,「ブログ冷やかしの語源にまつわる「紙洗橋」の親柱が…」(2025年11月17日参照).
http://hoteiya.blog47.fc2.com/blog-entry-924.html
DOMINISTYLE事務局, 2024年12月,「浅草の水に映る古の町。<前編>『山谷堀』」(2025年11月17日参照).
https://doministyle.jp/announcements/vz9xfwa85zpv2z<i
『道路・橋梁考』, 東京都台東区, 1963. 国立国会図書館デジタルコレクション(2025年11月17日参照).
https://dl.ndl.go.jp/pid/3010356
台東区文化探訪アーカイブス,「台東区の史跡・名所案内 浅草、花川戸、雷門」(2025年11月17日参照).
https://www.culture.city.taito.lg.jp/bunkatanbou/landscape/japanese/asakusa_03.html
葛飾区郷土と天文の博物館ホームページ,「今戸焼」(2025年11月17日参照).
https://www.museum.city.katsushika.lg.jp/archive/pickup/post.php







