【今回のコース】南北の町奉行所跡に立ち寄り、昔ながらの面影宿る佃島から石川島へ

隅田川のほとりに立つ赤い鳥居は、住吉神社の一の鳥居とも言われている。
隅田川のほとりに立つ赤い鳥居は、住吉神社の一の鳥居とも言われている。

今回のコースは以下の通り。

JR東京駅日本橋口→(3分)→北町奉行所跡→(JR線利用・2分)→JR有楽町駅中央口→(2分)→南町奉行所跡→(地下鉄有楽町線利用・6分)→月島駅→(5分)→月島もんじゃストリート散策→(30分)→佃島入口→(3分)→住吉神社→(50分)→佃島内散策→(3分)→天安本店→(3分)→住吉小橋→(1分)→石川島灯台・石川島人足寄場跡→(20分)→地下鉄月島駅

江戸の町人地の治安や司法など、多くの職務を担った役所跡へ

南北奉行所の幕府役職名は町奉行で、両者は月番制であり、町を南北に分けて担当していたわけではない。北町奉行所は文化2年(1805)からは現在のJR東京駅日本橋口付近に置かれていた。まずは北町奉行所跡へ。

北町奉行と言えば、時代劇でもおなじみの名奉行・遠山の金さんこと遠山左衛門尉景元を思い出す人も多いだろう。べらぼう散歩企画2回目で両国界隈を歩いた際、火付盗賊改長官の長谷川平蔵が住んでいた家に、後の世になり遠山景元が住んだことを紹介した。時代劇の主人公として人気のふたりは、不思議な縁で結ばれているようだ。

「べらぼうめ!」主人公の蔦屋重三郎(以下・蔦重)をはじめ、登場人物が度々口にするこの言葉。ドラマのタイトルにもなっているが、もともとは穀物を潰した道具の「箆棒(へらぼう)」からきているとも言われ、意味は「穀潰し」という不名誉なものであったと伝えられている。それがいつしか一般的でない者に対して使われるようになり、転じて「常識では考えられないばかげたこと」や「桁外れなこと」を示す江戸ことばとなっていったとか。実際には「ばかだなぁ」くらいの、軽い意味で使うことも多かった。そして同じ江戸ことばで「何を言っている」を表す「てやんでぇ」と合わせ、「てやんでぇ、べらぼうめ!」が江戸っ子の決まり文句のようになっていく。まぁ大抵が気の短い江戸っ子の、喧嘩(けんか)の前口上という場面でのようだが。

北町奉行所跡の案内板が建てられているのは、日本橋口から出ると右側に立つ「丸の内トラストタワーN館」東側にある植え込みの中だ。駅の出入り口からはビルを回り込まなければならず、案内板前は人通りも少ないのでちょっと見つけづらい。

ビルの谷間にある植え込み内に設置されている北町奉行所跡地の案内板。
ビルの谷間にある植え込み内に設置されている北町奉行所跡地の案内板。

一方、南町奉行所は現在のJR有楽町駅の中央口を出てすぐの駅前広場付近にあったそうだ。北町奉行所跡から歩いても20分ほどだが、今回はどちらも駅前ということなので、JR線を使うことにした。

南町奉行所跡の碑は、JR有楽町駅前広場の一画に立っている。正面に有楽町マルイのビルがあり、多くの人が待ち合わせにも利用する場所だ。南町奉行所は宝永4年(1707)に常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転し、幕末まで所在地は変わっていない。現在の有楽町駅から東側街区一帯が含まれていた。

南町奉行を務めた人物で有名な人は、何と言っても20年間その任に就いていた大岡越前守忠相をおいて他にはいないだろう。八代将軍徳川吉宗の側近として、享保の改革を支えた人物としても知られている。そう言えば『べらぼう』で蔦屋重三郎の天敵で、寛政の改革を進めた老中・松平定信は吉宗の孫、ドラマと関連あると言えなくもない。

有楽町駅前広場には南町奉行所跡の碑と案内板が設置されている。
有楽町駅前広場には南町奉行所跡の碑と案内板が設置されている。

明治時代に誕生した埋め立て地は、東京の粉もの料理の聖地に

有楽町駅前広場からは、地下鉄有楽町線に乗って、今回の散歩のメイン目的地へと移動する。有楽町駅から3つ先の月島駅で下車し、7番出口から地上に出れば、目の前に月島西仲通り、通称もんじゃストリートの入り口があり、もんじゃ店が並ぶ様子が目に入る。

駄菓子屋文化から発展したと言われるもんじゃ焼きは、今や東京を代表する粉もの料理の地位を確立。昭和の雰囲気を残すもんじゃストリートには約80軒の専門店があり、平日の日中でも多くの人々が店を物色している。

平日の日中も多くの店が営業している月島もんじゃストリート。
平日の日中も多くの店が営業している月島もんじゃストリート。

この月島という地域は、明治20年(1887)から20年以上の年月をかけ埋め立てられている。江戸時代は海だった場所で、東京湾内に月の岬と呼ばれた観月の名所があったことにちなみ、月島と命名されたという。

今回は残念ながらもんじゃ焼きを味わう余裕がなかったので「次回こそリベンジ!」と心に誓いつつ、通りを端までたどってみた。メインストリートの脇にある、人がようやく通れるような路地の奥にも店の提灯があり、食いしん坊や飲ん兵衛はそそられる。次はこのエリアだけで1日過ごそうと思った。

佃島の始まりは、徳川家康を助けた大坂の漁民が干潟を造成したこと

今回は『べらぼう』に登場する人気キャラクター、火付盗賊改方の長谷川平蔵が、江戸の町に増え続けた無宿人(当時の戸籍である宗門人別帳から名前を外された者、今風に言えばホームレス)や軽犯罪者などの更生対策として、石川島に設置した人足寄場跡を訪ねるのが目的。この施設は平蔵が時の老中・松平定信に提案したことで作られたとされる。

この石川島に月島から向かう場合、佃島と呼ばれたかつての島を通って行くのが通常の道順となる。現在では石川島を含む一帯が、中央区佃という同じ住所となっているが、佃島は独自の歴史を有している、散歩にはうってつけのスポットなのだ。

天正10年(1582)6月2日、京の本能寺にわずかな手勢とともに宿泊していた織田信長は、家臣の明智光秀の軍に襲撃され命を落とす。有名な本能寺の変だ。この時、信長の招きに応じて上洛していた徳川家康は、泉州堺にいた。事件を察知した家康は、急ぎ三河への脱出を開始した。そして摂津国の神崎川を渡ろうとした際、近隣の佃村の漁民が船を集めてくれ、一行を無事に対岸へ渡してくれた。

以来、家康と佃村の漁民の間には、強い信頼関係が出来上がった。慶長8年(1603)になり、家康が江戸に幕府を開くと佃村の漁民33人が江戸に呼ばれ、幕府から大川(隅田川)河口部の干潟を拝領する。彼らは周囲を石垣で固め、100間(180m)四方の島を造成する。この島を故郷の佃村にちなんで佃島とした、という話が伝えられている。

佃小橋から眺めた風景は、昔ながらの漁を営む船と高層ビルが同時に収まる。
佃小橋から眺めた風景は、昔ながらの漁を営む船と高層ビルが同時に収まる。

現在では周囲の埋め立てが進み、隅田川の河口は3kmほど南西に移動してしまったから、佃島と聞いてもピンとこないだろう。しかし実際に歩いてみれば、随所に島だった頃の面影、そして古き良き時代の空気が感じられる。

佃島へ渡る前に、まずは人がすれ違うのも難しいほど細い路地の奥に祀られた「佃天台地蔵尊」を参拝したい。ここのお地蔵様は、平らな石に彫られた珍しいもの。正徳5年(1715)から元文3年(1738)の間、在住していた上野寛永寺の崇徳院宮法親王が、地蔵菩薩を厚く信仰。自らが地蔵菩薩を描いて江戸府内の寺院に地蔵尊を造立したもののひとつだと伝えられている。

人ひとりが通れる路地の奥にある佃天台地蔵尊。イチョウの幹の左奥の石板に地蔵尊が刻まれている。
人ひとりが通れる路地の奥にある佃天台地蔵尊。イチョウの幹の左奥の石板に地蔵尊が刻まれている。

石に描かれたお地蔵様と並んで目を見張るのが、路地奥の小さなお堂の天井を突き抜け空へと伸びているイチョウの大木だ。小さいながらも今はお堂になっているが、昔は囲いがあるだけだった。イチョウの木の樹齢はおよそ400年で、地蔵尊ができる前から自生していたのであろう。路地から出て見上げれば、その全容を見ることができる。

漁師町だった頃の面影を随所で感じることができる

路地を出て右手をみれば、佃小橋の朱色の欄干が目に入る。橋の下にはかつて隅田川の河口と海がぶつかる辺りに位置していたが、周囲が埋め立てられたことで堀となった水辺がある。そこには釣り船が係留されていて、いかにも江戸時代は漁師の島だった、という風情が感じられる。

この堀の底には、3年に一度開催される住吉神社の本祭りで使われる、高さ20mもある柱が埋められている。空気に触れさせないことで、腐食を防いでいるそうだ。実際、寛政10年(1798)から使い続けられている。

社殿前の鳥居の額は珍しい陶器製。題字は有栖川宮幟仁親王(ありすがわのみやたかひとしんのう)の筆で、中央区民文化財だ。
社殿前の鳥居の額は珍しい陶器製。題字は有栖川宮幟仁親王(ありすがわのみやたかひとしんのう)の筆で、中央区民文化財だ。
住吉神社の境内には東京鰹節類卸商業協同組合が建立した鰹塚がある。
住吉神社の境内には東京鰹節類卸商業協同組合が建立した鰹塚がある。

橋を渡り、まず訪れたのは北東の隅に鎮座する住吉神社だ。佃島を埋め立てた漁師たちの出身地である大坂の住吉神社の分社で、海上安全や渡航安全の守護神として、現在も地域の人々から信仰されている。社務所の向かいに立つ手水舎の奥には、鰹の御霊に感謝慰霊の意を込めた「鰹塚」が建立されている。

住吉神社を後にして、さらにかつては佃島だった場所をくまなく歩いてみると、井戸水を汲み上げるための手押しポンプを発見。しかも複数見かけた。さらに古い木造家屋の玄関先には、これまた懐かしいコンクリート製の天水桶が残されていた。今は花壇のようになっているが、本来はここに雨水を溜めておき、火事が起きた時は消火に利用した。江戸時代から住宅密集地には置かれていて、昭和の頃まではどこの家の玄関先で見られた。

家の敷地内ではなく、誰でも使えると思われる場所にあったポンプ。「飲めません」の札がなければ飲んだかも!?
家の敷地内ではなく、誰でも使えると思われる場所にあったポンプ。「飲めません」の札がなければ飲んだかも!?
旧飯田家住宅という、築100年超えの家屋前に置かれていたコンクリ製天水桶。
旧飯田家住宅という、築100年超えの家屋前に置かれていたコンクリ製天水桶。

漁師たちの知恵から生まれた江戸を代表する人気グルメ

隅田川に面した通りには、昔ながらの味を守り続ける佃煮の専門店が並んでいる。家康によって大坂から呼び寄せられた漁民たちは、江戸湾で白魚漁などを営み、獲れた魚を江戸城に納めることで漁業権を得ていた。

当時は陸地から離れた小島で、作物を作ることもままならなかったため、シケになると菜に事欠いてしまった。そこで小魚を塩辛く煮込んで保存食を作った。後に千葉から醤油が伝わると、塩ではなく醤油で煮込んだ保存食を考案。佃島発祥だったことから「佃煮」と命名される。そのおいしさはたちまち評判となり、江戸中に広まったことから「江戸の味」として知られるようになった。

佃煮の老舗が集まる通りでひときわ目を引く『天安本店』。9~18時、12月31日・1月1日休。東京都中央区佃1-3-14 ☎03-3531-3457。
佃煮の老舗が集まる通りでひときわ目を引く『天安本店』。9~18時、12月31日・1月1日休。東京都中央区佃1-3-14 ☎03-3531-3457。

佃煮専門店の中でも『天安』は、味わい深い町屋造りが目印。店先をビシッと決める藍染の太鼓暖簾(のれん)が、道ゆく人の目を引く。店名の由来は天保8年(1837)に創業し、初代店主が安吉という名だったから。

店内はけして広くはないが、歴史を感じる昔ながらの小上がりで販売する「座売り」に感動すら覚える。目の前のケースには貝類、海藻、小魚を煮込んだ、いかにも佃煮という商品が並ぶ。何を買おうか悩んでしまい、お店の人にあれこれ相談して3種類を購入。30分近くかかったが、それも楽しい時間(お店の方にはご迷惑をおかけしました!)。

ずらりと並んだ佃煮は、どれも100g単位で購入できる。他にお得なセット売りもあり。
ずらりと並んだ佃煮は、どれも100g単位で購入できる。他にお得なセット売りもあり。

その場で食べるわけにはいかないので、持ち帰って家でいただきました。味は濃いめだが、きちんと素材そのものの味、おいしさ、食感が伝わってきた、これはご飯が進む系。そのまま酒の肴にももってこい。日持ちするので東京土産にしても喜ばれること請け合いだ。

ちなみに、『天安』の店のほぼ正面には、かつてここが渡し船の発着所だったことを示す碑が立っている。これもかつては島であったことを感じさせてくれる。

手前は一番人気の天安昆布550円、後ろ右はきゃらぶき450円、後ろ左はえび690円。価格はすべて100g。
手前は一番人気の天安昆布550円、後ろ右はきゃらぶき450円、後ろ左はえび690円。価格はすべて100g。
佃大橋が1964年に完成する以前は、佃島へは渡船が運航していた。その船着場跡に立つ記念碑と案内板。
佃大橋が1964年に完成する以前は、佃島へは渡船が運航していた。その船着場跡に立つ記念碑と案内板。

江戸時代の職業訓練所が置かれた島は、高層ビルが立ち並ぶ風景に変貌

佃島にいると時間を忘れてしまう。さほど広いエリアではないが、見どころが満載だからだろう。名残を惜しみつつ、かつて人足寄場が置かれていた石川島に続く住吉小橋へ。この橋の上から佃島方面を振り返ると、ここがかつては島だったことを物語る風景が見られる。そして隅田川側に目をやれば、佃堀と川を隔てる「住吉水門」がある。通常は水門が開いた状態になっていて、住吉神社に面した堀に停泊している漁船が出入りしている。

石川島側から見た歩行者専用の住吉小橋。右手に見えるのが住吉水門。
石川島側から見た歩行者専用の住吉小橋。右手に見えるのが住吉水門。
住吉小橋上から見た佃島(右側)と石川島。今は堀になったが、かつては海、河口、川へと姿を変えていった不思議な水辺。
住吉小橋上から見た佃島(右側)と石川島。今は堀になったが、かつては海、河口、川へと姿を変えていった不思議な水辺。

そして佃島の対岸には、昔の灯台のような建造物が見える。これはかつて石川島にあった灯台を模して作られたモニュメント的な建物で、灯台の下はなんと公衆トイレになっている。この付近こそ、長谷川平蔵が松平定信に進言したことで作られた、人足寄場があったとされる場所である。今は周囲に高層ビルが建ち並び、そんな面影は皆無だ。

石川島人足寄場跡を示す案内板と、かつての灯台を模したトイレ兼展望台(内部には入れません)。
石川島人足寄場跡を示す案内板と、かつての灯台を模したトイレ兼展望台(内部には入れません)。

天明の大飢饉の影響で、当時の江戸には周辺の諸国から農地を捨て無宿人となった人々が大勢流入していた。その日に食べる物すらないような人がふえたことで、治安の悪化が懸念された。そこで人足寄場が設けられたのだが、これは単なる収容施設ではなく、更生と授産を目的とした職業訓練所のような性格を持ち合わせていたのだ。

佃島とともに、江戸期から島として存在していた石川島だが、現在は佃という地名になっている。大都市・東京をもっとも肌で感じられる風景の中に、このような歴史が埋もれていることを目の当たりにできるのも、散歩ならではの面白さと言えるだろう。

石川島だったエリアにある中央区立佃公園。高層マンションの住人の憩いの場でもある。
石川島だったエリアにある中央区立佃公園。高層マンションの住人の憩いの場でもある。

次回、この「べらぼう散歩」の集大成的な意味を込めて、再び浅草から吉原界隈を訪ねてみたいと思う。

取材・文・撮影=野田伊豆守

2025年の大河ドラマは、江戸時代中期から後期にかけて一世を風靡した版元・蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)が主人公。今で言うところの出版社経営者であり、超一流のアートディレクターである。武将や貴族、憂国の志士などと違い、市井の民の物語という異色の大河ドラマとして開始前から話題に事欠かない。そして第1回目の放送から大いに話題を提供し、視聴者の耳目を集めている。まさに「江戸のメディア王」を扱ったドラマにふさわしいスタートダッシュともいえるだろう。とにかく小気味いいテンポで話が進んでいくようなので、まずは蔦屋重三郎という人物を育んだ吉原という土地の今、東京都台東区を訪ねてみることにしたい。
「べらぼうめ!」主人公の蔦屋重三郎(以下・蔦重)をはじめ、登場人物が度々口にするこの言葉。ドラマのタイトルにもなっているが、もともとは穀物を潰した道具の「箆棒(へらぼう)」からきているとも言われ、意味は「穀潰し」という不名誉なものであったと伝えられている。それがいつしか一般的でない者に対して使われるようになり、転じて「常識では考えられないばかげたこと」や「桁外れなこと」を示す江戸ことばとなっていったとか。実際には「ばかだなぁ」くらいの、軽い意味で使うことも多かった。そして同じ江戸ことばで「何を言っている」を表す「てやんでぇ」と合わせ、「てやんでぇ、べらぼうめ!」が江戸っ子の決まり文句のようになっていく。まぁ大抵が気の短い江戸っ子の、喧嘩(けんか)の前口上という場面でのようだが。
大河ドラマ「べらぼう」を見ていると、毎回その言動が気になって仕方がない人物がいる。ある意味、もうひとりの主人公といっても過言ではない存在。それは江戸時代の天才クリエイター・平賀源内だ。主人公の蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう、以下蔦重)が何か壁にぶつかるたびに、フラリと現れては解決への糸口を探り当てる。平賀源内というのは実に多彩で、そのうえつかみどころのない人物である。もともとは讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)の下級武士・白石家の三男として享保13年(1728)に生まれた。身分が低かったにもかかわらず、藩医の元で本草学を学び、宝暦2年(1749)頃には長崎へ1年間の遊学に出ている。長崎に行くことができたこと自体が謎なのだが、そのうえ何を学んでいたのか記録が定かではない。その後の活躍ぶりから、オランダ語や医学、油絵などを学んでいたのであろうと考えるのが自然だ。
ドラマ『べらぼう』では、次の将軍を選ぶための陰湿な争いが描かれ始めた。第10代将軍徳川家治(いえはる)の嫡男・家基(いえもと)が謎の死を遂げ、さらに真相を突き止めようと動いた老中首座の松平武元(たけちか)も、5カ月後に急死。田沼意次の毒殺ではないか、という噂が城内で広まっていく。そしてドラマでは、意次が懇意にしている平賀源内に調査を依頼。だが確固たる証拠が見つからぬまま、それ以上の探索はかえって事件を拡大させる恐れがあると感じた意次は、調査の打ち切りを決定。真相に迫っていると感じていた源内は憤慨する。そんな源内の元には、怪し気な人物が近づいてくる。
ドラマ『べらぼう』も中盤に入り、個性的な登場人物が次々に登場。現代でも高い評価を得ている芸術家や文化人と、彼らが生み出す作品を世に送り出した稀代のプロデューサー蔦屋重三郎(以下・蔦重)のアイデアが、一気に花開いていく様子が描かれている。その小気味の良い展開に、すっかり虜(とりこ)となってしまった人も多いようだ。安永2年(1773)、吉原五十間道に立っていた「蔦屋次郎兵衛店」を間借りして、書店「耕書堂」を始めた蔦重。本屋としての地歩を着実に固めた後、天明3年(1783)にはついに日本橋の通油町(とおりあぶらちょう)に耕書堂を構えた。“ついに”と表現したのは、ここは鶴屋喜右衛門といった江戸の名だたる地本問屋が軒を連ねる書店街だったからだ。まさしくこの時に、出版界に「耕書堂あり!」となったのである。
ひと昔前の教科書では、田沼意次(たぬまおきつぐ)は“賄賂政治”という言葉と対になって記述されていた。だが大河ドラマ『べらぼう』では、近年見直されてきた改革者としての田沼像に寄せていると思われる。しかも演じているのが渡辺謙なので、切れ者感が半端ない。田沼意次は16歳の時、のちに九代将軍となる徳川家重の小姓となり、父の遺跡600石を継いでいる。家重が将軍職に就くと、意次も江戸城本丸に仕えるようになった。それとともに順次加増され、宝暦8年(1758)には1万石を拝領、大名に取り立てられる。家重が逝去した後も、十代将軍徳川家治から厚く信頼され、出世街道を歩み続けている。そして明和4年(1767)、側近としては最高職の側用人へと出世を遂げた。加えて2万石が加増され相良(さがら)城主となり、さらに安永元年(1772)になると、遠州相良藩5万7000石を拝領し藩主となった。そして幕政を担う老中にまで昇進したのだ。わずか600石の小身旗本が5万7000石の大名になり、しかも側用人から老中になった、初めての人物だ。そんな意次の足跡が残る相良を歩いてみた。
都心のビジネス街は指呼の間(しこのかん)。日中はビジネスマンらしき出で立ちの人々も多く行き交う深川は、それでもどこか昔ながらの下町情緒が漂っている。ここは徳川家康が江戸の町づくりを進めていた慶長年間(1596〜1615)、摂津国(現・大阪府と兵庫県の一部)からやって来た深川八郎右衛門が隅田川河口を埋め立て、深川村と名付けたのが始まり。この地は明暦3年(1657)に起こった「明暦の大火」以後、日本橋や神田にあった貯木場が深川やその東側の木場へと移ってきたことに加え、大川(隅田川)と中川(旧中川)を結ぶ小名木川や仙台堀川などの運河による舟運ルートが確立し、大きく発展。そして膨れ続ける江戸の人口をのみ込んでくれた。今回はそんな深川で、この地と縁が深い『べらぼう』登場人物の足跡を追ってみることにしたい。江戸時代は庶民の町であった一方、郊外には風光明媚な風景が広がっていたことから、粋な人たちが別荘を構えた地でもあった。そんな面影も同時に追ってみよう。
東京から日帰りができる観光地として、内外の観光客から絶大な人気を集めている埼玉県の川越。この街が本格的に整備されたのは、寛永15年(1638)に川越で発生した寛永大火の翌年、川越藩主としてこの地を治めることとなった松平信綱の時代である。“知恵伊豆”と称された信綱は、産業開発や土木事業を推奨。現在に続く川越の発展の基を成した。川越城の拡張も偉業であるが、それ以上に「町割」と呼ばれる都市計画に、優れた手腕を見せた。城下町は武家地、町人地、寺社地という具合に、身分によって居住する区域を定めている。武家地は城の南北と、川越街道沿いを中心に配置された。町人地は札の辻を中心とする通りに展開されていた。