クルディスタン
トルコ南東部から中東各国に広がる山岳地域。3000万人のクルド人が住むが、自分たちの国家はない。日本には埼玉県南東部を中心に2000~3000人ほどが暮らすが、700人ほどが仮放免といわれる。今年に入りトルコに強制送還される人々が増えている。
育まれてきた、朝のひとときをゆったり楽しむ文化
「まだまだ出てきますよ」
と、オーナーのイシ・アルクさん。その言葉通り、スタッフが次々にでっかいトレーを運んできては、すきまに詰め込み、長テーブルの上はみるみるカラフルに、にぎやかになっていく。見ているだけで楽しい。
チーズ類だけでも20種類くらいはあるだろうか。トマトをベースにした煮込み料理の数々、ナスやピーマンなど野菜とスパイスの炒めもの、いろいろな品種のオリーブ、ナッツ類、フルーツ、それにブラウニーなどのスイーツ……。
目移りしていると、パンが焼き上がってきたようで心地良い香りが漂う。これまた種類豊富で、シンプルにゴマをまぶしただけのシミットや、チーズとピスタチオを挟んで焼いたものなどが窯から運ばれてくる。ちなみに紅茶は飲み放題だ。これで時間制限ナシ2000円というのだから素晴らしいコスパといえるだろう。
クルド人は特定の国を持たない民族として知られる。トルコ、イラン、シリア、イラクの国境地帯にまたがって住む、もともとは遊牧の民だ。で、川口市や蕨市を中心に埼玉県南東部に暮らすクルドの人々はトルコ生まれがほとんど。それもトルコ南部のガジアンテップ地方出身者が大半を占める。
だから食文化もトルコ化が進んでいるし『アゼル』のメニューは「ガジアンテップの家庭の味そのまま」とイシさんは胸を張る。
そしてトルコ料理は「カフヴァルトゥ」、つまり朝ごはんが豪華なことでも知られている。オスマン帝国時代からたくさんの料理を並べて、ゆったりと朝のひとときを楽しむ文化が育まれてきたという。「一般の家庭でも10種類くらいは出すんじゃないかな」。
そんなトルコスタイルの朝食の中でも、クルド伝統のメニューはアリナジクだとか。焼いたナスをペースト状にしてヨーグルトをかけ、炒めたひき肉と合わせたものだ。ガジアンテップ発祥の「ご当地グルメ」でもある。トルコ全域で親しまれてるメネメンも定番。卵とトマトを胡椒や唐辛子で炒めたもので、パンとは最高の相性。それにスイーツにはピスタチオをたっぷり使うのもクルド流だ。
朝の早い解体業のために6時から営業
クルド人が日本に増えてきたのは1990年代のことだ。背景にはトルコでクルド語の禁止など同化政策が進められたことがある。教育や就職の面でも不当な扱いをされることがあり、トルコ国外に希望を求める人も増えていく。多くはヨーロッパに難民として逃れていったが、日本を選ぶ人たちもいた。
たどりついたのは埼玉県の南東部だった。昔から製造業がさかんな地域で、バブルの頃から南アジア、中東系の外国人労働者も多く、その中にはクルド人もいたからだといわれる。
そんな人々を頼って、難民としてやってくるクルド人も増えてくる。しかし日本は難民の受け入れに積極的な国ではない。そして難民かどうかの審査にはひどく(ときには数年も)時間がかかる。結果を待つ間、本来は入国管理局の施設に収容する必要があるが、人道上の観点から「仮」に日本社会に「放免」する……そんな「仮放免」という立場に、多くのクルド人が置かれた。これは不法滞在というわけではない。しかし就労ができない、健康保険に入れないなど厳しい制限がある。そして難民申請が却下されると、また申請し、やはり仮放免になって、それでもトルコで暮らすよりは、と川口や蕨で生きてきた。
中には日本人と結婚するなどして正規の在留資格を得る人も出てくる。この人々はおもに、日本人の敬遠する解体の仕事で糊口をしのぎ、就労できない仮放免の親族を支えてきた。
イシさんは2003年に来日した。「18歳のときに、兄を頼って」。
後に在留資格を得て、やはり解体の現場で汗を流し、働いたお金で買ったのは一台のダンプだった。
「たった一台から始めたんです」
解体の会社を興し、それから必死でがんばってきた。いまではダンプ15台、重機18台を擁する企業に成長した。従業員の中には日本人も5人いる。
そして2022年に『アゼル』を開いた。平日はなんと6時から営業している。解体の仕事は朝が早い。自社の職人たちに、そして解体業に従事する同胞たちのために、故郷のスタイルの朝食を提供しようと思ったからだ。
荒れる2世、飛び交う流言飛語
しかしいま、クルド人の社会は揺れている。仮放免という不安定な立場のまま世代を重ねてきた結果、さまざまな面で歪ひずみが出てきた。とくに子供たちだ。仮放免の子供もまた仮放免だから、将来の見えない不安や言葉の壁から、荒れる子が増えてしまった。日本人の不良とツルんで悪さをするようになり、それが日本人の猛烈な批判を浴びた。いまでは事実とは異なるデマもSNSを飛び交い、ヘイトを煽(あお)る。
もちろん、クルド人にも大いに問題はあるだろう。しかしデマによって問題を過剰に誇張させ、憎しみの対象にするのは果たして正しいのか。
「日本に来たばかりのことです。薬局を探していたんですが、まだ日本語がわからなくて困っていました」
そんなときに、声をかけてくれた日本人の青年がいたのだという。
「その人は一生懸命に薬局を探してくれました。それで日本が大好きになったんです。でもいまは……」
イシさんは悲しそうに呟(つぶや)いた。
取材・文=室橋裕和 撮影=泉田真人
『散歩の達人』2025年11月号より







