英傑の故郷、尾張の江戸時代

皆も知る通り、尾張国(愛知県西部)は著名なる戦国武将が多く生まれた地として現世でも知られておる。

織田信長様や豊臣秀吉を筆頭に、柴田勝家様、丹羽長秀様、儂・前田利家、加藤清正、福島正則、山内一豊、堀尾善治、蜂須賀正勝と枚挙に暇がない。

来年(2026年)の大河ドラマの主役・豊臣秀長も尾張国出身であるし、古くは源頼朝様も尾張にお生まれである。

源氏を称し信長様にも恩がある徳川殿にとって、尾張は決して軽んずることのできぬ場所であった。

無論、尾張国と美濃国は東西を行き来する交通の要でもあって、地理的にも誠重要な地であるわな。

故にこの地は信頼のおけるものに任せねばならんかった。

そこで選ばれたのが家康殿の四男・忠吉殿じゃ!

この者は家康殿の子の中で随一の武勇を誇り、関ヶ原の戦いでは井伊直政殿と共に先鋒として大活躍、それによって尾張と美濃に五十万石以上の領地を与えられたのじゃ。

じゃが忠吉殿は慶長12年(1607)に病でこの世を去り、代わりに入ったのが忠吉殿の弟で、家康殿の九男坊・義直(よしなお)殿じゃ。

この時に建てられたのが名古屋城である。

時を同じくして家康殿の十男・頼宣殿には紀伊国を与えて尾張藩と共に徳川宗家の後継が絶えた時に養子を出す、いわゆる御三家の制度が整えられた。

尾張藩は御三家筆頭として将軍家に次ぐ立場が与えられたのじゃ。

因みに、現世で御三家として数えられる水戸藩は徳川姓を与えられたのが尾張藩や紀伊藩よりも10年以上遅く、更には尾張藩と紀伊藩が代々大納言を与えられたのに対して、水戸藩は中納言と少しばかりの差が設けられておった。

じゃが、江戸には最も近く将軍家の懐刀としての意味もあったで、一概に家格の差があったとも言い難いところでもある。

さて、話もそれたところでこれよりは尾張徳川家の藩主を順々に紹介して参ろうではないか!

初代・徳川義直

尾張徳川家の祖にして初代名古屋城主は先に申した通り家康殿の九男、義直殿である。

関ヶ原の戦いの一カ月後に生まれた義直殿が尾張を任されたのは僅か6歳の時である。

大坂冬の陣で初陣を果たし、夏の陣にも出陣した義直殿は戦を経験した最後の世代であるわけじゃ。

文化人としても知られ、尾張藩が多くの宝物を現世に継承し貴重な品が数多く残っておるのは藩祖・義直殿の影響が強かろう。

新田開発や治水、城下町の整備にも大いに力を入れ、商人の街として栄えた尾張の礎を築いたのも義直殿である。

また、勉学も奨励し家康殿から受け継いだ大量の書を「蓬左文庫(ほうさぶんこ)」として整備し、これは現世の図書館のはしりとも言われておる。

真面目でもありながら中々粋な武士だったようでな、東海道を通る大名家をもてなすために豪壮な東浜御殿(ひがしはまごてん)を築き、諸大名や将軍家をもてなすなど懐の広い一面もあったようじゃ。

義直殿が自ら記した『軍書合鑑(ぐんしょごうかん)』は尾張藩の藩訓として語り継がれ、中でも「王命によっても催さるること」の勤王の精神を示した一文は尾張藩にとって肝要な判断指針となるのであった。

二代・徳川光友

二代藩主は義直殿の嫡男・徳川光友殿である。

父と同じく文化に秀で、芸処・名古屋を定着させたのはこの親子の影響が大きかろう。

じゃが同時に藩の財政に頭を悩ませた藩主でもあった。

『べらぼう』でも幾度か描かれたが、江戸時代は人口が集中し始めたことで大火が多く起こっておる。

名古屋城も城下町が大きな被害を受けた大火事が起こっておって、これの復旧のために多くの銭がかかり、財政難に陥ったのじゃ。

この時に火事対策として拡張されたのが現世の栄の中心を走る広小路通。

藩の財政は傾いたが、民の暮らしのために政を行った主君であった。

また、三代将軍・徳川家光殿の長女を妻に迎えておって、将軍家と最も近い血筋となった。次に話す嫡男・綱誠(つなのぶ/つななり)殿は尾張藩主と将軍家との間に生まれ、尾張徳川家の家格を保つ重要な存在となった。

更には大窪松平家、四谷松平家、川田窪松平家と尾張徳川家の分家を作り、後継が絶えた折の備えとしておる。

三代・綱誠

光友殿の嫡男で三代藩主の綱誠殿は、父や祖父と同じく文化を重んじる英明な人物で、先代の光友殿が長く政務についておったことに加え、四十八歳で世を去ったことで語られることが少ないが、良き主君として知られておる。

また、綱誠殿は子が多くてな、この後語る尾張藩主の幾人かは綱誠殿の子である他、十七女が我が前田家に嫁いでおる。

四代・吉通

続く四代は綱誠殿の九男、吉通(よしみち)殿である。

兄たちの早逝が相次ぎ家を継ぐことになったのじゃが、才覚に溢れた御仁で時の六代将軍・徳川家宣殿からの信頼あつく、家宣殿が病で倒れた折には吉通殿に将軍職を譲ろうとするほどであった。

側近の反対を受け家宣殿の嫡男・家継殿が僅か四歳で将軍に就き、吉通殿は後見として将軍を支える大役を担うはずであった。

じゃが、家継殿が将軍に就任した直後に病に倒れ二十五歳の若さでこの世を去っておる。

不審死として毒殺が疑われ、尾張藩士が記した『鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)』には紀伊藩が尾張藩について探りを入れておるという噂が記されておって、将軍職を競合する紀伊藩によるものではないかと風聞が流れたようじゃ。

尾張藩の五代当主には吉通殿の嫡男・五郎太殿が二歳で据えられたのじゃが、その年のうちに亡くなり、これにて尾張藩の直系は途絶えることとなった。

六代・継友

直系の途絶えた尾張徳川家の後を継いだのは、三代藩主・綱誠殿の十一男・継友殿である。

継友殿が藩主となった数年後に、幼少で将軍家を継いでいた七代将軍・家継殿が六歳で世を去り、後継のいない将軍家は御三家から次期将軍を選ぶこととなった。

この時候補に挙げられたのが尾張藩主の継友殿と、紀伊藩主であった徳川吉宗殿である。

然りながら、尾張藩は将軍職推任のための活動をさしてしておらんかった。

将軍候補として名があがった吉通殿が「尾張は将軍職を争ってはならない」と家訓に残しておったことがその一因であろうが、そのためもあってか将軍職には・紀伊藩の吉宗殿が収まることとなった。

尾張藩は二度にわたって将軍職を逃し、これ以降の将軍家は紀伊藩出身の吉宗殿から続いたが故に、将軍家と尾張藩の関係に歪みが生まれたことは否定ができぬところじゃな。

継友殿も四十歳の若さでこの世を去っておって、これもまた将軍職を争った紀伊藩の仕業かと噂が流れておったようじゃ。

七代・宗春

継友殿は後継に恵まれず、七代藩主となったのはまたまた三代・綱誠殿の子、二十男の宗春殿じゃ!

綱誠殿の子から、四代吉通殿、六代継友殿、七代宗春殿と三人も藩主となっておる。

して尾張藩主の中で最も知名度が高いのは宗春殿であろう。

将軍・吉宗殿が行った倹約令に反発し、自由経済を推奨し名古屋の街を大いに発展させた名君として語られておる。

緊縮政策によって活気を失いつつあった江戸とは対照的に、名古屋は京の都よりも華やかと称されるほどになった。

故に宗春殿は現世でも実に人気が高く、大河ドラマにと推薦活動が行われるほどである。

じゃが、名古屋の発展としては大いに成功したものの尾張藩の財政は大赤字となった。そのため赤字を補うために民への締め付けも強くなってしもうた。

結果、宗春殿が参勤交代で江戸滞在中に、尾張藩の重臣の竹腰家が実権を奪い宗春殿の政策を廃止する事件が起こる。

これを好機と見た将軍・吉宗殿が藩内の混乱を理由に謹慎を申しつけ、藩主の立場を追われることとなった。

将軍家の命令に反発的だったことに加えて、尾張藩はこの頃幕府と関係が悪化していた朝廷との関係が深く、朝廷が幕府を嫌うのと対照的に尾張徳川家を持ち上げておったことで、このままでは将軍家の権威を失いかねないとの思いもあったのであろう。

無論、将軍となった吉宗殿と将軍の後継争いからの確執もあり多くの理由が重なった結果であろう。

宗春殿の政策は賛否分かれるところではあるのじゃが、街の治安の為に見回りを強化したり、性犯罪対策として提灯を増やして街を明るくしたりと民の暮らしを豊かにしたのは間違いなかろう。

他にも在任中には一度も死刑を行わなかったこともその先進性の一つとして語られておる。

因みに宗春殿は処分の後、二十年以上生きたのじゃが、謹慎処分が説かれることはなく、それどころか死後も解かれず墓には金網がかけられ、処分が下った百年後にようやく解けたというから、私怨を感じなくもないのう。

八代・宗勝、九代・宗睦

宗春殿の跡を継いだ宗勝殿は二代藩主・光友殿の孫に当たる人物じゃ!

先に申した尾張徳川家の分家・川田窪松平家の当主でもあった。

華々しい宗春殿の次の藩主ゆえにあまり語られぬが、文化と学問を愛した尾張徳川家らしい人物であったようじゃ。

宗春殿が作った財政赤字を改善するため自ら質素倹約に励み、見事財政を立て直してみせた。

九代・宗睦(むねちか/むねよし)殿は宗勝殿の嫡男。優れた政治を行ったことで「尾張藩中興の祖」とも呼ばれておる。

宗春殿の反動で父・宗勝殿の時代には倹約や刑法が厳しくなっておったが、それを塩梅よく整えて、学問の発展にも寄与しておる。

そして無論!

大河ドラマ『べらぼう』にも登場しておるわな!

先の話では専横を図る一橋治済(ひとつばしはるさだ)殿を諌める役として、紀伊藩主・徳川治貞殿と共に描かれておった。

まさに今、大河ドラマでは将軍家の代替わりの混乱が描かれておる、尾張藩も藩主の早逝や謹慎で代替わりが続き苦労しておったが、宗睦殿は三十年以上在任し安定した政をおこなったのじゃ!

『べらぼう』でも宗睦殿はきっと描かれるであろうで、活躍を楽しみにしておるが良い。

じゃが、宗睦殿を最後に尾張徳川家の血統は途絶えることとなる。

この辺りもまた話してまいろうかのう。

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さて、なかなか長くなったが此度の尾張藩史は如何であったか!

此度の話が面白かったと感じ、尾張藩の歴史に興味が出たというものは、名古屋城や『徳川美術館』に参ればより深く歴史を知れるであろう。

皆の登城待っておるぞ!

では此度はここまで。また会おう、さらばじゃ!!

文・撮影=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)

皆々は4月28日は何の日か知っておるか?早速答えに参るが、答えは「象の日」である!何々の日の類は日付の語呂合わせで定められることが多いわな。因(ちな)みに同じく4月28日は、良い庭の日(よ〈4〉いに〈2〉わ〈8〉)でもあるぞ!じゃが象の日はそうではなくてな、歴史上の出来事に因んで記念日に定められておるのじゃ。それは、日ノ本で初めて象が帝に拝謁した日である!初めてと申しておきつつ、二度目があったかは分からんけれども、享保14年(1729)4月28日に京の都にて謁見した記録が残っておる。官位を持たぬ者は帝に謁見できぬ決まりがある故に、急遽官位が用意されたとの逸話も残っておる。象が日ノ本にやって来た享保年間は本年の大河ドラマ『べらぼう』よりも50年ほど前。これほど古い時代に象が日ノ本へやってきておることに驚く者も多いのではないか?と言うわけで此度は日ノ本の歴史と動物について話そうではないか!改め、前田利家の戦国がたり開幕である!!
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