すごく普通ですごくおいしい

下落合駅の北口を出て新目白通りを渡り、目白方面に続く聖母坂通りを少し上ったところに『723ベイカリー』はある。周囲に飲食店はないものの、駅と住宅の並ぶ目白エリアをつなぐ通りのため人通りは多く、ベーカリーをやるにはなかなかいい立地だ。

小体な作りの店舗の中は狭いながらもシンプルかつ上品で居心地がいい。しかし、並んでいるパンはハード系がメインで、言葉にしないながらも店主の主張がしっかり伝わってくる。寡黙ながらも芯が強い、いぶし銀のようなベーカリーなのだ。

ラインアップは焼き込みこそあるが、総菜系はなし。クロワッサンなどのリッチ系もないし、やわらかなロールパンこそあるが、クリームパンもない。そこまでやるなら食べてみようとバゲットを食べてみたら、これがうまいのだ。

パンはハード系が中心。
パンはハード系が中心。

バリバリとした外側のクラストは香ばしく、内側のもっちりしたクラムは、噛むと小麦の風味が立ちのぼってくる。フランスパンなのだから当たり前の感想かもしれないが、すごく普通ですごくおいしいのである。

正統派なおいしさのバゲット。
正統派なおいしさのバゲット。

ひとりでパンを作りたい

このパンを作っているのは松嶋なつみさんという女性。『723ベイカリー』は松嶋さんが、たったひとりでパン作りも経営も行っている。

店主の松嶋なつみさん。
店主の松嶋なつみさん。

松嶋さんは大学を卒業後、パン職人になるべく大手チェーンベーカリーの『サンジェルマン』に入る。希望通りに製造部門に配属となったが、店舗での研修の際、体が小さかったため大量のパン生地や大型のオーブンを扱うのに苦労したそうだ。その後、商品開発部に配属され、4年半在籍した後に辞め、1年間フランスでパン修業をした。

オーブン内でパンを乗せるトレー。これはさほど大きくないけれど、松嶋さんが隠れてしまっています。
オーブン内でパンを乗せるトレー。これはさほど大きくないけれど、松嶋さんが隠れてしまっています。

帰国後、両国にあるベーカリーで働き、一時的に就労支援施設でパン作りを教えていたという。さらにまた両国のベーカリーに戻って働いたあと、独立して2021年4月に『723ベイカリー』を下落合で始めた。

ハード系メインとはいえ、角食、山食、レーズン食パンと、食パンひととおりそろっている。
ハード系メインとはいえ、角食、山食、レーズン食パンと、食パンひととおりそろっている。

この2つで働いたことは『723ベイカリー』のスタイルのベースとなっている。個人店で人を雇いベーカリーを続けることの大変さを知り、人に教えることで、あらためて自分でパンを作ることが好きだということに気づいたのだ。ここから、ひとりでパンを作って小さい店で売る『723ベイカリー』ができたのである。

特別なこだわりはなくても

「自分で作るのが好き」という松嶋さんの思いはパンの味にあらわれている。バゲットとともに本人が好きだというバゲットセレアルはこれまたバリッと焼き上げられ、生地を噛むと穀物の香りが一気に広がり、まるで大地に包まれているような感覚に襲われる。言葉として発してはいないが、「こういうパンが作りたいんです」という主張が伝わる、多弁なパンなのだ。

オートミール、ヒマワリの種、白ごま、小麦胚芽の入ったバゲットセレアル。これは半分サイズのプチで210円。
オートミール、ヒマワリの種、白ごま、小麦胚芽の入ったバゲットセレアル。これは半分サイズのプチで210円。

松嶋さんにパン作りのこだわりを聞くと、困ったような表情を見せた。たとえばバゲットはフランス産小麦と自家製の種を使っているが、特別なものというわけではなく、普通のやり方で作っているという。確かに『723ベーカリー』のパンは普通かもしれない。ただ、それは上等の普通だ。アイデアにあふれたパンも素晴らしいが、普通のことをちゃんとやって作ったパンもまた尊い。『723ベイカリー』のパンのおいしさは、そんなところにあるのだ。

ロールパン、くるみパンなど柔らかいパンもあります。
ロールパン、くるみパンなど柔らかいパンもあります。

また、今後のことを聞くと、「バリエーション的にライ麦や全粒粉のパンを増やしたい」という答えが返ってきた。あくまで「バリエーション的に」というこだわらなさが、いい。淡々とおいしいパンを作り続けるということが、一番、大切なのだから。

坂の途中のベーカリー。
坂の途中のベーカリー。
住所:東京都新宿区下落合4-5-1/営業時間:7~9月は7:30~売り切れまで。10~6月は12:00~売り切れまで(金曜のみ15:00~)/定休日:日・月/アクセス:西武鉄道新宿線下落合駅から徒歩3分

取材・撮影・文=本橋隆司