岐阜城よ、お前は既に死んでいる
長良川の川岸から見上げると、はるか山上に小さく天守が見える。標高は336m、比高もほぼ同じ300m超。見るからに「難攻不落」なたたずまいだが、実はこの城、記録に残っているだけで6回も落城している。
最も有名なのは1564(永禄7)年、道三の孫・龍興が城主だった時期。10人の手勢を連れただけの竹中半兵衛に攻略されている。いかに名将・半兵衛といえど「ほんまかいな……」と首をひねりたくなるが、10人は大げさとしても、少人数で奪い取ったのは事実のよう。
筆者自身も10数年前に一度、攻略したことがある。その際はロープウェイで山頂まで一気に昇ったが、今回は歩いて登ってみることにした。
岐阜公園側からの登山道は4コース。最短距離=急勾配は山歩きの鉄則。結果的に時間が余計にかかったりする。だいたい「馬の背」は名前からしてヤバイ。「百曲り」もいかにもキツそう。というわけで、かつての大手道ともいわれる七曲り登山道から登り、帰りは水手道から下ることにした。
七曲りは「大手」らしい広々とした歩きやすい道。犬の散歩がてら登っている人もいるぐらいの快適ルートだった。唐釜ハイキングコースとの合流点あたりから勾配がややきつくなるが、石段が整備されている。写真を撮りながら、ゆっくりペースで1.9kmを約1時間。ロープウェイ山頂駅にたどりついた。
ロープウェイ山頂駅そばにある看板の縄張図を見ると既に城内で、「煙硝蔵」のあった曲輪だ。今はりす村のリス達と、ロープウェイからひっきりなしに降りてくる観光客に占拠されている。岐阜城は岐阜市街地にある県内有数の観光スポット。この日は日曜だったこともあり、家族連れやらカップルやらで、ごったがえしていた。こんなに賑やかな山城も珍しい。
駅の裏へと歩を進めると、すぐに見事な冠木門が見えてきた。
※冠木門(かぶきもん)/2本の柱上部に笠木を水平に渡した門。屋根のないタイプが多い。
「これが一の門か? 」と思ったが、違った。信長が岐阜城で「天下布武」の朱印を用いたことを讃えて建てた「天下第一の門」だった。その数m先の石垣が残る場所が一の門。左手の階段上は太鼓櫓。門で前進を食い止め、頭上の櫓から攻撃を加える連携プレー。重要な防御ポイントのひとつだ。
さて、太鼓櫓のあった場所には現在、展望レストラン『ポンシェル』が立っている。レストランといいつつ、名物はどて丼。
東海地方独特の甘辛の味噌味。錦糸卵と一緒に頬張ると、意外とあっさり。辛子を絡めて味変も楽しめる。正式名称は、信長どて丼。完食すると丼の底に現れるのが……。
ちなみに光秀みそかつ丼と道三けいちゃん丼もメニューにあったが、丼の底に各家の家紋があるかどうかは未確認だ。
腹ごしらえをすませて、いよいよ城の中枢部へ。太鼓櫓から尾根伝いに進んでゆくと、見事な堀切に出くわす。
※堀切(ほりきり)/進路を阻むため鋭角に掘られた溝。
一部コンクリートで造成されているが、もともとゴツゴツした岩山で、その岩盤をぶった切っている。なかなか見事な堀切なのだが、ここでふと疑問が。縄張図をもう一度、見直してほしい。
太鼓櫓からの尾根伝いの道に対しては、V字の鋭い堀切が進路を真っ二つに遮断している。だが平行してもう1本、一の門から延びる道があり、こちらは堀切の脇をすんなり通り抜けられてしまう。遊歩道整備で埋められてしまったにしても、もう少し痕跡があるはずだが……。一の門からの道は後世の作で、当時は堀切手前で尾根に登るルートだったのかもしれない。あくまで勝手な想像に過ぎないが……。
堀切の先が二の門。急勾配を登り切った先でほぼ直角に折れ、城門と城壁の隙間を縫ってさらに城内の奥へ。
登城路は左手だが、まず右へ。崖下の道を進んでゆくと、巨石の影に本丸井戸が姿を現す。水の手を制するもの、城を制す。天守に攻めこむ前に押さえておくべきポイントだ。
井戸から見上げると、天然の断崖を補強するように、その一部が石垣になっているのがわかる。野面積みにしてはかなりの上下幅。そのために必要な技量から、信長の入城後に築かれたと考えられている。
実は岐阜城には、水の手がもうひとつある。天守への登城路の途中で左へ下る細い道をたどると「金銘水」。岩盤を四角形にくり抜いた、雨水を溜める貯水施設だ。ほとんどの登城者がスルーしていたが、見逃すべからず。雨水貯水タイプの水の手は時々あるが、岩盤タイプは珍しい。
ここまで来たら、天守は目と鼻の先だ。三層四階建の復興天守は昭和31年(1956)築。信長時代には天守はなく、息子・信忠時代に建てられたとされている。
ちなみにこの復興天守、実は二代目。明治43年(1910)築の初代復興天守があったが、昭和18年(1943)に失火により焼失(戦時中だが空襲ではない)。戦国時代の6回に続き、昭和になって7回目の落城。
ここで、冒頭の種明かしを。一見「難攻不落」、でも落城しまくりの理由は、その構造にある。再び縄張図を見てみよう。
まず、切り立った尾根上が城域のため、平地がおどろくほど少ない。これでは大した兵力を城内に駐屯させることができない。山としては峻険でありながら、城域には広大な平地があるのが、理想的な山城。岐阜城には残念ながら後者がない。
それから、各曲輪を直線的に配置した、相互に連携しづらいレイアウト。尾根が複数方向に延びていたり、「く」の字に曲がっていたりすれば、敵の背後を突いたり側面から攻撃を仕掛けたりできるのだが。直線的だと、各曲輪間を分断するのもたやすくなってしまう。
この2点、実際に城内を歩いてみれば身を持って実感できる。石垣など、斎藤時代と織田時代で多少変わっているだろうが、基本的な縄張はほぼ同じなのではなかろうか。なにしろ土地がないので。
下山は、天守の先に伸びる「水手道」へ。急峻な岩場の連続でかなりスリリング。
裏門を過ぎるとほぼ自然地形だが、加工の必要がないほど険しい。水手道をたどって麓まではおよそ1時間。後半の半分くらいは、比較的平坦な道が続いている。
昭和の落城を除くと最後の攻城戦となったのが、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの前哨戦。このとき、城を攻めた東軍の池田輝政は、この水手道を駆け上がったとされている。対する籠城側の西軍は、信長の孫・織田秀信。激戦の末、城側降伏で落城する。
城主の秀信は命拾いするのだが、38名の将兵が戦死(切腹との説も)。実は、そのときの血に染まった床板が、ある場所に現存している。
ということで下山後、岐阜城下から徒歩で約15分の崇福寺まで足を延ばした。
なぜ床板を天井に張ったのか。「菩提を弔うため」にしてはかなり特異なやり方だ。見上げているうちに頭上から血がしたたり落ちてきそうだ。生き延びた秀信は、この天井を見ることはあったのだろうか。
崇福寺は織田家の菩提寺でもある。境内にある信長・信忠親子の位牌を安置する廟にも手を合わせる。
そしてもう1カ所。寺から徒歩7~8分の「道三塚」にも。
このあたりに長良川の「中の渡し」があり、斎藤道三と息子の義龍が川を挟んで対峙。戦に敗れた道三は命を落とし、埋葬された。長良川の洪水で何度も流されてしまうので、江戸時代末期の1837(天保8)年に、現在の場所に移されたという。マムシを弔い合掌。
ちょうど日の傾き始めた夕暮れどき。城を制した両家ゆかりの地の訪問、城巡りの一日の〆にふさわしい。
といいつつ、道三塚からさらに徒歩で20分。道三の隠居城、鷺山城(さぎやまじょう)も目指してしまうのだった。「なぜ登るのか? だってそこに、山(城)があるから」と、心の中でつぶやきながら(この日、携帯の万歩計は初の1日3万歩超え)。
『岐阜城』詳細
取材・文・撮影=今泉慎一(風来堂)