もちろん「この料理が食べたい!」で訪れることもある。名物の煮込み、刺し身、ギョーザ、焼き鳥……その店ならではの料理をいただきに行く……というか、この理由が一番なんじゃないだろうか。特に大衆酒場はさまざまな料理を誰にでも好かれる仕上がりで提供するのだが、それでもその店イチオシの料理があって、それを目指して私のような客がやってくるのだ。

そんな名物を下調べして訪れる酒場も楽しいが、予期しない出来事や発見など、ストイックに調べれば調べるほど、結局自分は「何を求めて」酒場へ行こうとしているのか……と、最近はちょっと「?」になることもしばしば。

何も考えずに酒場へ行くことが、少し難しくなっているのかもしれない。

フィリピン風居酒屋と思いきや……

東武東上線上板橋駅へやってきた。普段あまり使わない路線だが、以前一度訪れたことのある酒場が今回の目的地だ。駅からは少々歩くのだが、そこがまた素晴らしく……と、その提灯の明かりが見えてきた。

フィリピン風居酒屋『KABAYAN』と思いきや……。
フィリピン風居酒屋『KABAYAN』と思いきや……。

そう、こちらのフィリピン風居酒屋『KABAYAN』だ! 色褪せた看板にフィリピン国旗が自慢げに描かれ、老舗感もたっぷり。店内ではフィリピン民謡が流れる中、よく煮込まれた“アドボ”を食して、冷えたフィリピンビールの“レッドホース”をガブガブやる──わけでは、ございませんっ!

怪しげに光る黄色提灯。
怪しげに光る黄色提灯。

実はこちらは居ぬき物件で、前の看板はそのままの状態にしているという、実態は純・日本の居酒屋『酒場ワタナベ』である。同じ居酒屋ならともかく、“フィリピン風”なんてまったく違うジャンルをそのままにしておくという奇抜さ。いったいどんな酒場なのか、ワクワクして入ってみよう(これで普通にフィリピン風でも面白いのだが……)。

店内はピカピカの明るい雰囲気!
店内はピカピカの明るい雰囲気!

うほっ、いいですねえ! 真新しい壁と天井、テーブルとイス。店の中央には大黒柱がズドン、壁の片面にはマスターの達筆のメニュー札。なんでしょう……例えシブい酒場の空間が好きだからって、決して自分の家をそんな風にしたくないもの。家でゆっくりと酒を飲むなら、こんな風にしたい、という雰囲気をまさしく体現している内観。

すでに居心地の良さがにじみ出ているカウンター席。
すでに居心地の良さがにじみ出ているカウンター席。

モウカの星、イタリアン、韓国……多彩な料理

すぐさま、テーブルのひとつをを陣取り、まずは酒をいただきたく。

注文はお会計票にて記載。
注文はお会計票にて記載。

注文は、お会計票に自ら記入する申告制。私はこの注文方法が案外好きで、“確実に注文しましたよ感”が安心できていい。

一見、普通のホッピーセットに見えるが……。
一見、普通のホッピーセットに見えるが……。

フィリピン風居酒屋……ではないので、ここは大衆酒場ならおなじみの酒「ホッピーの白セット」から。ただ、焼酎の量は“おなじみ”ではなかった!

グラスに目いっぱいの焼酎!
グラスに目いっぱいの焼酎!

なんですか、このナカ(焼酎)の量は! 量およそグラスの九割強はある。こいつへわずかにホッピー(ソト)を注ぎ、ちょっと飲んでみるが……濃い! なんて濃いのでしょう……いや、ホッピー焼酎の濃さは、その酒場の“愛情の量”だと思っている。そんな愛情酒場の料理がおいしくないわけない。さあ、ご紹介いたしましょう。

気仙沼モウカの星780円。
気仙沼モウカの星780円。

まずは「気仙沼モウカの星」だ。モウカの星とは知る人ぞ知る“サメの心臓”の刺し身である。別名“海のレバ刺”とも言われ、生々しい鮮紅が食欲をそそる。

血の滴るような新鮮なサメの心臓の刺し身。
血の滴るような新鮮なサメの心臓の刺し身。

うまい! 筋肉質でサクサクとした食感から、赤身肉の旨味がしたたるようだ。今後、これを見かけたら、必ず注文すること間違いない。

北海道つぶ貝刺し600円。
北海道つぶ貝刺し600円。

つづいて大好物の北海道つぶ貝刺しがやってきた。こちらも見るからに鮮度抜群のビジュアル。

口の中ではじけるような歯ごたえがたまらない。
口の中ではじけるような歯ごたえがたまらない。

「コリッ」という快音が店内に鳴り響く。たまにある水っぽさはまったくなく、まさしく“コリシコ”の食感が小気味いい。これまで以上につぶ貝刺しが大好物になった。

 

ここまでなら日本食を出すおいしい酒場なのだが、ここからがこの酒場の真骨頂。実はここのマスターは元々イタリアン出身で、そちらの料理の腕前といったらかなりのもの。なんなら、このイタリアンが一番のお目当てだ。

ナポリのモツ煮500円。
ナポリのモツ煮500円。

まずはナポリのモツ煮だ。モツ肉の各部位をトマトでじっくり煮込んだここの名物。スープにスプーンを潜らせただけで分かる、その肉の柔らかさ。

トロットロの具沢山なモツ煮。
トロットロの具沢山なモツ煮。

口に入れれば「それみたことか」と言わんばかりの肉の柔らかさ、そしてスープのコク。しっとりとチーズがかかっていて、これが全体の味をより深めている。

国産ハラミ タリアータ750円。
国産ハラミ タリアータ750円。

「おすすめです」とマスター自ら断言して持ってきたのが国産ハラミ タリアータだ。タリアータ……とは一体なんだろう? 調べてみるとレアで焼いた牛肉を薄切りにした料理で、ルッコラなどの葉物野菜をまぶして、パルミジャーチーズ、バルサミコ酢のソースをかけた、これぞイタリアンな一品。

うっとりするほど美しい、そしておいしいハラミ薄切り。
うっとりするほど美しい、そしておいしいハラミ薄切り。

しっとりとした薄切りハラミにバルサミコ酢の酸味、あとはルッコラだが、ここではなんと春菊を使っているという。他でタリアータを食べたことはないが、私の中でタリアータといえば春菊の一択だ。

愛知背黒イワシのカルピオーネ600円。
愛知背黒イワシのカルピオーネ600円。

マスターはイタリアンでも“和”の食材を取り入れるのがお好きなようで、愛知背黒イワシのカルピオーネなど顕著だ。カルピオーネなるものを調べるとイタリアンの南蛮漬けだが、こちらも様子が違う。和食器に黒イワシが幾重にも積み重なり、その頂にはチョンと玉ねぎがのっているという、見慣れた南蛮漬けとは違う。

香ばしさに酸味がたまらないうまさ。
香ばしさに酸味がたまらないうまさ。

けれども、ひと口食べればほんのり温かいイワシの唐揚げに程よい酸味、じゅわりとイワシの旨味が上品に広がる。和洋折衷を極めたようなおいしさである。

下町ハイボール、通称“ボール”。
下町ハイボール、通称“ボール”。

酒にもこだわりがあるようで、下町の酒場に精通するマスターは「ボール」まで用意している。ボールとは下町ハイボールの略で、甲類焼酎を炭酸で割り、「天羽の梅」というシロップで色付けした下町のソウルドリンクといっても過言ではない。ボールとイタリアン……なんだか背徳感すら感じなくもないが……。

カンジャンセーウ2匹600円。
カンジャンセーウ2匹600円。

ボールですっかり“日本の舌”に戻されたのも束の間。今度は日本でもイタリアンでもない、まさかの韓国料理のカンジャンセーウがやってきた。

プリップリで甘辛のタレがしっかりと染みている。
プリップリで甘辛のタレがしっかりと染みている。

しっとりと醤油色に染まった赤エビの身は甘辛く、ネットリと舌に絡むようなおいしさ。

まさか、韓国料理までいただけるとは……大衆酒場だからって、料理は万人受けする仕上がりで……なんて、とんでもない。店の看板だけではなく料理まで、いい意味で裏切ってくれる最高の酒場だ。

本場イタリアでの修業経験もあるマスター

しっかりこの土地の重鎮感はあるのに、2025年6月18日でまだ創業2年だというから驚きだ。

マスターは本場のイタリアで料理の修業をして、帰国後はイタリアンレストランに入るという、絵に描いたような料理人のキャリアの持ち主。ただそこから大衆酒場に興味を持って、本当に大衆酒場を開いてしまうという、なんという行動力、バイタリティ。

「すごく太りましたよ~」

というマスターは、イタリア料理だけではなく、和食、洋食、アジア料理、さらには絶品カレーまで何でもござれ。これだけ世界中の料理を研究されているなら、太ってしまうのもしかたがない。私だって、ここに通うようになれば間違いなく太る……いや、すでにしっかりと太っているのだけれども。

しかし、ここは居心地のいい酒場だ。結局、“何を求めて”酒場に行くのか?……なんて、分かり切ったことなのかもしれない。

店主や女将さん、そこの客ら皆で楽しむために酒場へ行く──なるほど、なんだか酒場へ行く「?」が、「!」に変わったような気がした。

取材・文・撮影=味論(酒場ナビ)