大正12年(1923)1月25日、東京市浅草区聖天町61番地(現在の台東区浅草7丁目3番地付近)で、後に稀代の時代小説作家となる池波正太郎が誕生する。父・富治郎は錦糸問屋に勤める通い番頭、母・鈴は浅草の錺職人(かざりしょくにん)今井教三の長女で、正太郎はそんな両親の長男として生まれた。この年の9月1日、関東大震災が起こったため両親とともに埼玉県の浦和に移り、6歳になるまで同地に暮らして昭和4年(1929)に下谷に戻っている。その後、両親が離婚したことで、正太郎少年は母親に引き取られ浅草永住町に住む祖父教三の家に移った。こうして少年期から青年期にかけ、正太郎は台東区内を生活の場としていたのである。

スカイツリーの氏神!本所一帯を守護

この社は貞観年間(859〜879)頃、慈覚大師円仁が当地を訪れた際、素盞之雄命(すさのおのみこと)の権現である老翁に会い、その託宣を受け創建したと伝わる。明治以前は牛御前社と呼ばれ、本所一帯の総鎮守であった。神仏分離が行われる前は、本所表町の牛宝山(ごほうざん)明王院最勝寺が別当として管理を担っていた。

境内には撫牛と呼ばれる、自分の体の悪い場所と同じ部位を撫でると、病気が治ると信じられている牛の像がある。また本殿前に建つ鳥居は、大きな鳥居の両脇に小さな鳥居が付いている、三輪鳥居(みわのとりい)という珍しいものだ。そしてこの社は、東京スカイツリーの氏神でもあるのだ。

三輪鳥居の奥に建つ社殿は総檜権現造。中は畳敷きになっている。
三輪鳥居の奥に建つ社殿は総檜権現造。中は畳敷きになっている。
鳥居越しに東京スカイツリーが見える。スカイツリーの氏神でもある。
鳥居越しに東京スカイツリーが見える。スカイツリーの氏神でもある。

牛嶋神社は現在、隅田公園と一体になっているが、創建時は公園よりも北側に立地していた。この公園は隅田川の両岸にまたがる広大な面積を有している。住所は西岸が台東区浅草、東岸は墨田区向島になる。牛嶋神社がある東岸には、かつて水戸徳川家の江戸下屋敷・小梅邸があった。

その屋敷にあった庭園を改修したのが、墨田区側の公園である。さほど大きくはないが、日本庭園独特の滝や築山が配置されているので、ありし日の大名屋敷の姿を思い浮かべることができるだろう。そして南側の芝生広場は、憩いの場として多くの人に愛されている。

もとは水戸徳川家の下屋敷であったことを示す碑が建つ。奥に築山や池も見える。
もとは水戸徳川家の下屋敷であったことを示す碑が建つ。奥に築山や池も見える。
芝生広場もあり、子どもたちの歓声も響いていた。
芝生広場もあり、子どもたちの歓声も響いていた。

池波作品に度々登場する名物橋

隅田公園を南側に抜けると、目の前を北十間川が流れている。これは江戸時代初期に開削された運河で、東は旧中川、西は隅田川と接続している。本所の北を流れる幅十間の川、というのが名前の由来だ。以前は大横川の分岐から西は源森川とか源兵衛堀と呼んだ。

この川の一番西には、枕橋が架けられている。もともとは源森橋という名であったが、水戸屋敷に注ぐ小さな川に新小梅橋が架かっていたことから、源さんと新さんが枕を並べているようだと考えた江戸っ子たちが、いつの頃か枕橋と呼ぶようになったらしい。そうなると源森橋という名が可哀想ということで、ひとつ東側の名無しの橋が源森橋となった。

枕橋は『鬼平犯科帳』に、源森橋という名で登場する。長谷川平蔵が凶賊の蛇(くちなわ)の平十郎と出会う蕎麦屋「さなだや」が、この橋のたもとにあった設定となっている。

また『仕掛人・藤枝梅安』では、梅安がこの橋の上から川を漕ぎ進む舟に飛び乗り、仕掛を行うという場面が描かれている。池波作品を読むと、この川が江戸の水運を担う重要な川であったのも知ることができる。

さまざまな池波作品に登場する枕橋(源森橋)。
さまざまな池波作品に登場する枕橋(源森橋)。

枕橋を渡り隅田川べりのうるおい広場を吾妻橋方面に歩くと、本所亀沢町(現在の両国4丁目付近)生まれの勝海舟の全身像が立っている。海舟は海軍の創設や、江戸城無血開城などの業績で知られる幕末の雄。右手を前に突き出したポーズは、アメリカを目指そうとする瞬間を捉えたものである。

この像は海舟の偉業を称え後世に伝えようという、墨田区民をはじめ全国の賛同者からの募金により、生誕180年にあたる平成15年(2003)に建てられた。

隅田川のすぐ脇に立っている勝海舟の立像。
隅田川のすぐ脇に立っている勝海舟の立像。

江戸の庶民の希望で架けられた吾妻橋と、平蔵の銀煙管

うるおい広場をそのまま進めば、右手前方に朱色に塗られた立派な橋が、隅田川に架かっているのが見えてくる。浅草駅や雷門がすぐ近くにあるため、人や車の往来が絶えない吾妻橋だ。

安永3年(1774)、町人からの要望が受け入れられ、両国橋、新大橋、永代橋に次いで架けられた隅田川4つ目の橋である。民営であったため、武士を除く利用者から2文の渡賃を徴収、それを維持費に充てた。長さは84間(約150m)、幅は3間半(約6.5m)、当時の正式名称は大川橋であった。

江戸時代は隅田川のことを大川と呼んでいたので、この名が付けられたが、多くの人が東岸にあった吾嬬(あづま)神社へ参拝するために利用したので、吾妻橋への改名願いが出され続けていた。それが叶うのは明治9年(1876)に架け替えが行われた時。ちなみに現在の橋は昭和6年(1931)にかけられたものだ。

この橋は『鬼平犯科帳』に度々登場している。とくに印象的なのが、平蔵の亡父が愛用していた遺品の銀煙管が事件の鍵となる「大川の隠居」。その話の中で、元盗賊の船頭友五郎が平蔵を舟に乗せ、巧みな櫓さばきで橋をくぐって大川を遡上する場面が登場する。

今では橋の上から宇宙船のようなスタイルをした水上バスが、吾妻橋をくぐって浅草の発着場に出入りする姿が眺められる。
今では橋の上から宇宙船のようなスタイルをした水上バスが、吾妻橋をくぐって浅草の発着場に出入りする姿が眺められる。

池波最後の舞台作品となった『夜もすがら検校(けんぎょう)』思い出の地

吾妻橋を渡ると、右手には東武鉄道の浅草駅が見える。さらに道なりに進むと、浅草寺の総門である風雷神門(通称雷門)の前に出る。ここは古くから人の姿が絶えることがない人気のスポットで、浅草寺境内は数々の池波作品に登場する。

さらに界隈には、池波が散歩の途中に立ち寄り、飲み食いを楽しんだ飲食店も点在している。グルメな池波がこよなく愛したそれらの店も、いずれは訪ね歩いてみることにしよう。

浅草の顔とも言える雷門。
浅草の顔とも言える雷門。
浅草寺も池波作品にはよく登場する。ようやく昔日のにぎわいが戻ってきた。
浅草寺も池波作品にはよく登場する。ようやく昔日のにぎわいが戻ってきた。
慶安2年(1649)頃、浅草寺の東門として建立された二天門。
慶安2年(1649)頃、浅草寺の東門として建立された二天門。

雷門から仲見世通りを抜け、伝法院方面へ少し行くと、台東区立の浅草公会堂の前に出る。ここは本格的な花道やさまざまな音響機材を備えたホール、会議や研修に使える和洋の集会室、さらに絵画や華道などの展覧会が開ける展示ホールを備えている。

そして忘れてはならないのが、正面入口前の地面に埋め込まれた数多くの手形とサインが入ったプレートである。ここは「スターの広場」と呼ばれ、台東区が大衆芸能の振興に貢献した人々の功績を称えるため、昭和54年(1979)から設置を始めた。

この公会堂では、池波最後の舞台作品となった『夜もすがら検校(けんぎょう)』が上演された。そのように池波とは縁深いこともあり、永眠する直前の平成2年(1990)3月製作された、池波の手形も残されているので、ぜひ探してみて欲しい。

さまざまな催し物が開催される浅草公会堂。
さまざまな催し物が開催される浅草公会堂。
公会堂周辺を飾る「スターの広場」に並ぶ手形の中には、池波正太郎のものもあるので探してみよう。
公会堂周辺を飾る「スターの広場」に並ぶ手形の中には、池波正太郎のものもあるので探してみよう。

『雲霧仁左衛門』に登場した小さな寺院へ

そして最後は『雲霧仁左衛門』に登場した、西浅草の東本願寺に向かった。この寺院はもともと慶安4年(1651)、東本願寺第12世の教如が神田に御坊光瑞寺を建立したのが始まりであった。その後、京都の東本願寺の別院となっている。浅草に移転したのは明暦3年(1657)のこと。江戸市中の大半を焼き尽くした明暦の大火により焼失したからだ。

以来、浅草本願寺とか浅草門跡と呼ばれるようになった。この寺が『雲霧仁左衛門』に登場した際、境内正面の西側に2つの土蔵があるように描かれている。その土蔵のひとつから、新堀川の向こう側にある菓子舗・越後屋を見張ることができた。そのため、雲霧一味が越後屋を狙っている情報を掴んだ火付盗賊改方の同心が、土蔵を見張所としたのであった。現在は越後屋があった場所はかっぱ橋道具街という、人気のエリアになっている。

広大な敷地を誇る西浅草の東本願寺。
広大な敷地を誇る西浅草の東本願寺。
東本願寺の西側はさまざまな厨房用品が揃うかつぱ橋道具街である。
東本願寺の西側はさまざまな厨房用品が揃うかつぱ橋道具街である。

東本願寺から地下鉄の田原町駅へ向かう途中、池波家の菩提寺である西光寺がある。池波家代々の墓は、本堂を抜けた裏の墓所に建っていた。お願いすれば手を合わせることもできるが、住宅街にある静かな寺院なので、くれぐれも迷惑にならないようにしたい。

住宅が並ぶ静かな一画に建つ西光寺。
住宅が並ぶ静かな一画に建つ西光寺。
池波家代々の墓はじつに慎ましいものであった。
池波家代々の墓はじつに慎ましいものであった。

次回からは数ある池波作品の中でも人気が高く、今も劇画連載が続いている『鬼平犯科帳』に登場した、印象的な地を巡ってみたい。

取材・文・撮影=野田伊豆守