“生活に芸術を”と始まった老舗喫茶

外壁の絵は、オーナーの知り合いで当時東京藝術大学の学生だった大絵晃世(おおえあきよ)さんの作品。
外壁の絵は、オーナーの知り合いで当時東京藝術大学の学生だった大絵晃世(おおえあきよ)さんの作品。

すずらん通り付近の路地を歩いていると、あっと目を引く壁がある。ビルの一面に描かれた、豊かな森のようなジャングルのような青々とした壁画だ。扉を開けて中に入れば、赤い壁、水色の天井、青いテーブル、そして大きくカーブを描いた壁にも壁画が広がっていて、さらに驚かされる。

「“生活に芸術を”ということをコンセプトに、元気になれるようなお店にしたかったと聞いています。壁画は、店のオープン時にオーナーが直接依頼して描いてもらったんです」とは、店長の桜井道子さん。

明大通り沿いには1980年創業の本店『古瀬戸喫茶店』があり、こちらの『ギャラリー珈琲店 古瀬戸』は1988年にオープンした。

店内の壁画は、洋画家でタレントの城戸真亜子(きどまあこ)さんによる作品。これだけの大きな壁画を描くためには体力も必要だが、城戸さんが出演していたテレビ番組の企画を見て、パワーもあると見込んだオーナーの加藤さんが依頼を決めたのだとか。

壁画は4年かけて1992年に完成。長らくこの店の顔として親しまれていたが、2011年ごろに一部描き直したいと城戸さんから要望があり、時折店を訪れ数時間描いて帰るという時期がしばらくあったという。現在は、店のオープン時に描いた部分と、後から描き変えた部分の両方を見ることができる。

コーヒーとスイーツを、作品を眺めながら味わう

壁画は写真左側が当初描かれた作品「浮遊する桃」で、右側が描き変えた部分。
壁画は写真左側が当初描かれた作品「浮遊する桃」で、右側が描き変えた部分。

店名の通りギャラリーであり、貸し画廊もやっている店内は、壁画のほかにもアートが散りばめられた空間だ。

店内の赤い壁面が、ギャラリーとして貸し出している部分。過去には写真の個展の開催が多かったというが、絵画もよく似合う。範囲によってプランが分かれており、半“個室”のスペースを完全なギャラリーとして借りることもできる。ギャラリーカフェというのは時折見かけるが、それらが隣接するのではなく完全に空間を共有し、カフェ店内の壁に作品がある状態というのは珍しい。ギャラリーや画廊というと敷居が高く感じてしまう人でも、ここなら喫茶店として利用したついでに鑑賞できる。

座席のすぐ目の前に作品が並ぶ。
座席のすぐ目の前に作品が並ぶ。

「個展をされた方が、こんなにたくさんの人が見てくれたんだ! と芳名帳を見て喜んでくださることも多いです。赤い壁って画廊には珍しいのですが美術館には案外多くて、作品がよく映えるんです。ここで個展をした後、家の壁を赤く塗ったという方もいるんですよ」と話す桜井さん。

シフォンケーキ650円、コーヒー(ストレート)700円。シフォンケーキはドリンクとセットで100円引きになる。
シフォンケーキ650円、コーヒー(ストレート)700円。シフォンケーキはドリンクとセットで100円引きになる。

この内装で映えるのはアートばかりではない。コーヒーやスイーツも美しく際立ち、じっくり味わうのにぴったりだ。

「いろいろ試して、これに落ち着きました」と桜井さんが話すフードメニューは、人気のカレーが3種と、ケーキなどのスイーツが8種類。桜井さんが試行錯誤を重ねたというチーズ入りカスタードクリームのシュークリームが有名だが、シフォンケーキもおすすめだ。2種の盛り合わせで、この日はひとつがココナッツが効いたプレーン、もうひとつは黒糖とあずき。ふんわりと軽さもありつつ、しっとりとした舌触りがくせになる。

コーヒーは、神戸「萩原珈琲」の炭火焙煎の豆を使用。オリジナルブレンドのほか、ストレートも数種類そろっている。この日は、なかでも特にこだわって焙煎されているというストレートのモカをいただいた。コクがあってまろやかで、冷めてもおいしい。周囲に飾られた作品を眺めながらこれを味わえるとは、なんともぜいたくな過ごし方だ。

キーワードは「クラフト」と「オリジナル」

アート、コーヒー、フードと特筆すべき特徴の多い『ギャラリー珈琲店 古瀬戸』だが、自分の時間にどっぷり浸かれる雰囲気も魅力的だ。

接客するうえでは、お客さんには踏み込みすぎず、そのうえで親切にすることも心がけているという。そんな付かず離れずのほどよい距離感に加え、広さと席数があること、内装や作品によって醸し出される独特の雰囲気が、落ち着く場所にしてくれているのかもしれない。

店の入り口に立つ桜井さん。
店の入り口に立つ桜井さん。

「この店に来てくださる方はいい人ばっかりです」と桜井さん。本店創業当時はまだ地下鉄半蔵門線も通っておらず、今ほど発展していなかった神保町にオーナーが店を構えた理由も「いかがわしいお店がないから」だったんだとか。さまざまなカルチャーが交錯し文化の香り豊かな街にある、アートに囲まれた空間で、自分の時間を楽しむ人々が集う。そりゃ、居心地がいいわけだ。

「オーナーの加藤さんはクラフトが好きで、オリジナルにもこだわってきました。昔のお客さんにはよく『変わらないね』と言っていただきます。変えるべきではない部分は変えずに、その他は時代に合わせて更新しながら続けていきたいですね」。

神保町を行き交う人のサードプレイスとして、この美しい空間がいつまでも残ってほしいと願うばかりだ。

取材・文・撮影=中村こより