幕府公認の遊郭「新吉原」で生まれた蔦重
大河ドラマ冒頭では、青年時代の蔦屋重三郎(以下・蔦重)が遭遇した「明和の大火」のシーンが映し出され、吉原という特殊な土地を表現するところから始まる。
この火事は明和9年2月29日(1772年4月1日)、目黒行人坂(ぎょうにんざか)から出火。南西の風にあおられ麻布、京橋、日本橋を焼き、さらに江戸城下の武家屋敷も呑み込んだ。この火事で死者1万4700人、行方不明者4000人以上を出している。
後述の「明暦の大火」、さらに文化3年(1806)の「文化の大火」と合わせて、江戸三大大火と呼ばれるほどの大災害だった。
江戸幕府公認の遊郭・吉原は、そもそも最初は日本橋に近い場所にあった。
江戸市中が繁栄し、拡大したことで幕府から移転を打診されていたが、最終的な後押しとなったのは明暦3年1月18日(1657年3月2日)に発生した「明暦の大火」だ。江戸の大半が焼失したのを機に、吉原は浅草寺裏手の日本堤へ移転。以後、もともとの吉原を「元吉原」、新たに築かれた吉原を「新吉原」と呼んだ。
蔦重が生まれたのは江戸中期の寛延3年(1750)、ここ移転後の新吉原だった。
【今回のコース】吉原を巡り浅草駅から三ノ輪を歩く
今回訪ねるのは新吉原で、以後の表記は吉原に統一したい。「べらぼう散歩」の記念すべき第1回目なので、まずはお大尽たちが吉原に通う際に使った行程をたどってみよう。
撮影しながら余裕をもって歩いたら、こんな感じ。
私鉄・地下鉄浅草駅→(5分)→隅田公園→(15分)→今戸橋跡・山谷堀公園→(10分)→正法寺→(20分)→見返り柳→(1分)→五十間道→(3分)→お歯黒どぶ跡→(3分)→吉原大門跡→(10分)→吉原神社→(5分)→吉原弁財天本宮→(10分)→鷲神社→(30分)→浄閑寺→(5分)→地下鉄日比谷線三ノ輪
裕福な遊客が通った粋な水路跡を歩く
吉原、現在の台東区千束4丁目界隈へは、今や訪日観光客の超人気スポットとなった浅草からスタート。
午前中にもかかわらず、雷門方面は歩くこともままならぬ様子だったので、すぐさま隅田公園へ向かう。ここは隅田川に面した広々とした公園なので、道行く人を気にせず気持ちよく散歩できる。
浅草駅から隅田川の景色を楽しみつつ、20分ほど歩くと今戸橋跡に着く。
かつては荒川(現在の隅田川)の氾濫を防ぐ目的で、箕輪(三ノ輪)から大川(隅田川)まで、水路があった。今戸橋はそのもっとも下流、山谷堀が隅田川に合流する地点に架かっていた。江戸時代には、吉原遊廓への水上路として隅田川から山谷堀に入り、大門近くまで遊客を乗せる猪牙舟(ちょきぶね)が行き来していた。
今戸橋の下はそうした舟がひっきりなしに通っていたことから、「今戸橋 上より下を 人通る」と川柳に詠まれたほどだった。
現在では堀は暗渠(あんきょ)となり、堀跡は日本堤から隅田川合流点まで、約700mの山谷堀公園となっている。今戸橋は、公園の南端入り口に親柱だけが残されている。
もともと水路だっただけあって、公園内は平坦でとても歩きやすい。途中には猪牙舟をあしらったオブジェも置かれている。解説版も豊富に建てられているので、往年の様子なども想像でき、飽きることなく歩ける。振り返るとスカイツリーが大きく見えた。
途中で蔦重の菩提寺「正法寺」を参拝
公園内を10分ほど歩き、浅草高校前の信号で車道に沿って右に少し進むと、蔦重の菩提寺である日蓮宗の「正法寺」前に至る。現在は境内に「喜多川柯理(からまる・本名)墓碣銘(ぼけつめい)」と「実母顕彰の碑文」と刻まれた顕彰碑が立っている。
もともとあった蔦屋家の墓は火災・震災・戦災などが起こるたびに失われ、そのつど歴代のご住職が遺骨を集め萬霊塔に納めてきた。刻まれている碑文は大田南畝(おおたなんぽ/蜀山人〈しょくさんじん〉)と石川雅望(まさもち/宿屋飯盛〈やどやのめしもり〉)という、ふたりの文人・狂歌師が手がけた。
顕彰碑は寺の正面入り口を入った奥の墓所にあり、普通に墓参りのために訪れる人もいるので、静かに見学するよう心がけたい。
今も道脇に残る柳の木が吉原の存在を示す
再び山谷堀公園に戻り、日本堤方面を目指す。地方(じかた)橋跡で公園は途切れるので、この先は土手通りを三ノ輪方面へ200mほど歩くと、吉原大門交差点左の歩道に「見返り柳」が見えてくる。
昔から山谷堀脇の土手に植えられていた柳で、吉原で遊んだ客が柳のあたりまで来ると、名残惜しそうに振り返ったことから、こうばれるようになった。震災や戦災で焼けてしまったり、枯れてしまったこともあったが、現在は6代目の柳が吉原を訪れる人を迎えてくれる。
見返り柳があるかつての街道、日本堤から吉原大門までを結ぶ道が「五十間道」と呼ばれていた。距離が50間(約90m)あったからこう呼ばれ、街道からは遊廓が見えないようにS字カーブを描いていた。門に向かい少し下り坂になっていて、吉原を訪れた男性たちはここで着物の乱れを直しつつ歩いたことから「衣紋坂(えもんざか)」とも呼ばれた。
そんな五十間道は、今も当時が忍べる形で残されている。道筋にはかつて、引手茶屋や小料理店が立ち並んでいた。蔦重の義兄が営んでいた引手茶屋「蔦屋」もこの界隈にあり、蔦重はその軒先で貸本業を行っていた。
S字カーブを抜けると右手に吉原交番がある。その手前の路地を右に30mほど入ると、かつて吉原を囲んでいた堀に築かれていた石垣擬定地がある。マンションへ入る石段の脇なので、うっかり見落としてしまう可能性が高いが、その先で吉原公園が出てくるためそこで行き過ぎたことがわかる。
この堀は「お歯黒どぶ」と呼ばれていた。女性の逃亡を防ぐだけでなく、無銭飲食の客を逃さないための堀であった。名前の由来は、遊女たちが使ったおはぐろの汁を捨てたことで、堀の水が真っ黒だったから、というのが定説となっている。
ちなみに吉原公園は、この堀に面していた格式の高い廓「大文字楼」が立っていた跡地に築かれている。
吉原の守護神が合祀された吉原神社
再び交番がある五十間道に戻ると、目の前に「よし原大門(おおもん)」のプレートが掲げられた街路灯の柱が目に入る。
ここがかつては吉原遊廓への唯一の出入り口であった、門が立っていた場所だ。
出入り口を他に設けなかったのは、治安維持や、女性の逃亡を防ぐためだったと言われている。そのため火事などの災害が起きると逃げ遅れることが多く、大河ドラマの第1話でも描かれていたが、悲惨な結果を招くことも多かった。
今では当時の光景を偲ぶことはできないが、今も吉原のメインストリートである仲之町通りをまっすぐたどると「吉原神社」前に出る。それまで吉原遊廓の守護神として鎮座していた5つの稲荷社を、明治14年(1881)に合祀し創建された神社だ。
その5社とはドラマにも登場する「九郎助(くろすけ)稲荷社」をはじめ「吉徳(よしとく・玄徳)稲荷社」「榎本稲荷社」「明石稲荷社」「開運(松田)稲荷社」のこと。
開運・商売繁盛・技芸上達といったご神徳が知られているうえ、大河ドラマの影響もあり境内は人であふれていた。
さらに先へ進むと、吉原神社の境外社である「吉原弁財天本宮」が鎮座している。この場所にはかつて弁天池や花園池と呼ばれた池があった。弁天池のほとりに弁財天の祠があって、遊廓関係者からの信仰を集めていたというのが、吉原弁財天本宮の起源だ。現在のシンボル「吉原観音像」は、関東大震災時の火災から逃げ、池で溺死した約500人の遊女たちを慰霊するために建立された。
酉の市発祥地から遊女が投げ込まれた寺へ
吉原弁財天本宮を後にして国際通りに出ると、毎年11月の酉の日に開催されている「酉の市」の発祥の地として知られた「鷲(おおとり)神社」前に出る。
吉原の西側に鎮座していることから、通常開かない大門以外の門が酉の市が開催される日だけは開き、遊客を呼び入れたと言われている。男たちの側からしても、酉の市への参拝が吉原行きを隠す格好の口実となったようだ。
鷲神社を参拝した後、国際通りを三ノ輪方面へ。地下鉄三ノ輪駅前を過ぎ、さらにJR常磐線の線路を目指すと、右手に「浄閑寺(じょうかんじ)」が出てくる。明暦元年(1655)に創建された浄土宗の寺院で、ご本尊は阿弥陀如来である。
吉原の遊女が投げ込むように葬られていたことから「投込寺」と呼ばれたが、とくに安政2年(1855)の大地震の際には、犠牲となった遊女が大勢運び込まれた。ご住職のお話によれば「寺の過去帳によると、埋葬された遊女の数が2万人を越えていたようです。残念ながら失われてしまった過去帳もあるので、正確な数はわかりませんが、多くが若くして亡くなったと考えられています」。
現在、本堂裏の墓地に遊女たちを供養する「新吉原総霊塔」が建立されている。塔の基部には川柳作家花又花酔(はなまたかすい)が詠んだ「生まれては苦界(くがい) 死しては浄閑寺」が刻まれている。今も化粧品などがたくさん供えられている様子に、胸が締め付けられた。
次回は蔦重の人生に大きく関わった人たちゆかりの地を訪ね、吉原から少し離れたエリアを歩きたい。
取材・文・撮影=野田伊豆守