*音声公開期間:2021年9月23日まで
「江の島慕情」 瀧川鯉八
ものを知らないぼくでも「えー!これ知らないなんて人生半分損してるよ」って言われると、ぼくの何を知ってるんじゃい!と腹が立ちますが、実は当たっているような気がするから腹が立つのかもしれません。
でも逆に「えー!真夜中の江の島に行ったことないなんて人生半分損してるよ」って口にしてみると、なるほど気持ちがいいね。
夜更けの江ノ島駅は昼間の賑わいが嘘のように静かで、弁天橋をてくてく渡ると、見えてくるのが青銅の鳥居。仲見世通りにゃ用はない。鳥居をくぐらず左へ曲がれば、昔の面影残る東町。一杯飲み屋、定食屋、よろずやさんに釣り餌屋。野良猫蹴飛ばしずんずん進めば名店「きむら」にこんにちわ。きんめの煮付に思いを馳せると垂れてくるのはよだれかな。さっきはごめんと違う猫たちあやしてみたら、江島神社へ続く裏道階段。ヨットハーバー背中で感じのぼりのぼって脇の小道に目をやると、はじめて見つけた喫茶店。深夜だけやってますとの気になる看板目にしたうえで素通りしたら、人生半分損するような気がして。
「いらっしゃいませ。ご注文は?」
「コーヒー」
「どのようなコーヒーに致しましょう?」
「コーヒーの味の違いがよくわからないんだ。まかせるよ」
「かしこまりました。こんな話がありましてね。ある喫茶店のマスターが『ご注文は?』とたずねたら、『いつもの』って答えたお客さんがいたんだそうです。マスターは『かしこまりました』と言ったものの、そのいつものがなんなのかわからなかった。しかし、いつものってなんでしたっけと聞き返すこともできず、とりあえずコーヒーを淹れたんですが、うっかり誰も飲まないような癖の強いコーヒーを淹れてしまったんです」
「飲んだ客はなんて?」
「『これこれ~。やっぱこれだよね~』って美味しそうに飲んでたそうです。ですからお気になさらずに」
「助かるよ。ねぇマスター。表の看板に深夜だけやってるって書いてあったんだけど本当なの?」
「ええ」
「こんなこと聞くのは失礼かもしれないけど、江の島で深夜だけの喫茶店って大変なんじゃない?」
「こんな話がありましてね。ある殺し屋の話なんですが、殺し屋といってもそれはあくまで仮の姿」
「仮の姿? 殺し屋が?」
「男の本当の正体は喫茶店のマスター。マスターは悩んでいた。どうしてうちには客がこないのか」
「仮の姿が原因でしょ」
「来る日も来る日もお客を待ち続けた。そんなある日、カランコロンカラン。『いらっしゃい!』『警察だ』するとマスターこう言ったそうです『何名様ですか?』って。さ、どうぞ」
「…味も話もよくわからない。あ、その殺し屋ってまさか?」
「噂話ですよ。おかわりいかがですか?」
「できれば違うのを。もっとわかりやすい味を」
「甘いのはどうでしょう?」
「苦手なんだよね」
「かしこまりました。お客さん、海はお好きですか?」
「嫌いだね。体を鍛えてないからね。海は己の肉体に自信があるやつが集うとこだからね。マスターは好き?」
「海は怖いです」
「泳げないの?」
「泳げたところでひとたまりもありませんよワニの前では」
「ワニ?」
「ワニが怖いんです」
「ワニって海にいる?」
「いないという保証はないでしょう。ワニがいるかもしれないと思ったらおちおち海なんか入ってられませんよ。ワニのあの顔を思い出すととても海なんて。ワニの噛む力は動物のなかでいちばん強いんだそうです。」
「でもカバのほうが強いと聞いたことあるなあ」
「よくご存知で。噛む力はワニのほうが強いんですが、スピードやパワーなど総合力ではカバの圧勝なんです。カバはやさしそうな顔してるのに強い。ワニはあんな顔してるのに弱い」
「嫌なことがあってムシャクシャしてるワニでも負けるかね?」
「女にフラれて自暴自棄になってるワニでも負けるでしょうね」
「ワニは噛む力は強いけど、口を開く力は弱いと聞いたことがあるもんなあ」
「よくご存知で。中2男子の力でも口を押さえ込めるそうです。ちなみにカバの噛む力と、60キロの人がハイヒールで踏みつける力はほぼ同じらしいですよ」
「じゃあ満員電車でイライラしてるハイヒールを履いた60キロのOLさんは?」
「強い。序列としては、イライラしてるOL、カバ、中2、ワニ。あんな顔してワニは弱い。さ、どうぞ」
「苦い。マスター、ほろ苦いよ!」
「おかわりいかがですか?」
「もう一杯! 苦くないのを」
「かしこまりました。お客さん、夢はございますか?」
「夢? いやぁ、そんなものはとっくの昔にどこかに置き忘れてきたよ」
「こんな話がありましてね。むかしこのあたりに小さな工場があったそうで~」
【ガラガラガッシャン】
「やってらんねえよ!」
「どうした三郎」
「やってらんねぇよ! なんだよ朝から晩までネジ磨く仕事って! なんに使われてるかもわからないネジなんて作ってられっかよ! っていう奴だっているだろうに、俺とおっちゃんがやってるのはそのネジをただひたすら磨くだけの仕事じゃねえか! 下請けの下請けのド下請けだ。俺はこんなことやるために田舎捨ててきたんじゃねえや! 俺はな、ロックがやりてえんだ!」
「岩?」
「ロックンロール!」
「ああ、そっちね」
「俺がこんなことしてる間にもみんなはロックしてんだよ! 俺はどうだ? ネジ磨きだよ。誰がやりたがるよこんなこと」
「ロックはみんながやってるのか?」
「やってるよ! みんなロックやってビッグになるんだよ!」
「みんながやってることを三郎はやりたいのか? みんなと同じことをするのがロックなのか?」
「なにを!」
「誰もやってない、やりたがらない、そっちのほうがロックだと思わんか?」
「なに言ってんだよおっちゃん」
「ロッケンローの代わりはたくさんいる。でもおまえの代わりはいない。よっぽどロックじゃないか」
「でもよおっちゃん!」
「ワシもな、若い頃は船乗りになりたかったんだ。世界を股にかける船乗りに。ネジなんて磨きたくなかった。でもある日思ったんだ。もしかしたらこのネジが船に使われてるかもしれん。ネジを磨くやつがいなかったら船は動かんかもしれん。船を動かしてるのはワシなんだって。そう思うと急に自分が誇らしくなった。ネジを磨くことは自分を磨くことだって。三郎、おまえの仕事は立派な仕事だ」
「立派な仕事?」
「でもな三郎。ワシのようにはなるな。ワシはこの50年ネジだけしか見てなかった。家族に目を向けることはなかった。気づいた時にはもう遅い。みんないなくなった。三郎、ワシのようにはなるな。ネジを愛して家族も愛せ」
「おっちゃん…」
「おいそんな顔するな。ワシはまだ諦めたわけじゃないぞ。もう一度乗ってみようと思う。家族という名の船に。乗せてくれるかわからんがな」
「きっと乗せてくれるよ!」
「あ、マスターごめん。ごめんごめん。ほろ苦いのは頼んでないんだけど」
「お客さん、この話にはまだ続きがあるんです」
「続き?」
「おっちゃんの話に感動した三郎、心を入れ替えて一生懸命ネジを磨いたんですが、それからまもなくして工場は閉鎖されたんです」
「閉鎖? どうして?」
「科学的に解明されたんです。ネジは摩擦があったほうがいいって。そのほうが船も遠くまで進むって。ネジを磨くことは間違いだった。おっちゃんが50年やってきたことは間違いだった。船にも乗せてもらえなかった。さ、どうぞ」
「すっぺぇー! マスターこれ酸っぱいよ!」
「そりゃそうですよ。昨日淹れたコーヒーですから」
撮影=武藤奈緒美 消しゴムはんこ=とみこはん
『散歩の達人』2020年8月号より