数奇な運命に翻弄された英国人
物語は慶長5年(1600)、イギリス人航海士ジョン・ブラックソーン(後の按針、史実ではウィリアム・アダムス=三浦按針)が、伊豆の網代に漂着する。そこでジョンら乗組員は網代領主によって、囚われの身となってしまう。
史実では、アダムスが乗船していたオランダ船リーフデ号は、慶長5年3月に豊後国臼杵(ぶんごのくにうすき=大分県臼杵市)の黒島に漂着。地元領主の報告により、長崎奉行の寺沢広高により拘束された。その後、重体で動けない船長に代わり、アダムスとヤン=ヨーステンらが大坂に護送され、五大老首座の徳川家康が彼らと引見している。
さて、ドラマでは漂着の地が大分県から静岡県に変わっているが、伊豆の伊東市には、三浦按針の足跡が多く残されている。そこで小春日和の某日、伊豆屈指の温泉街としても知られる伊東へと向かった。
造船に適した河口を形成していた松川
伊東駅はJR東日本の駅の中では、もっとも南に位置するそうだ。なるほど、改札を出たロータリーに目をやると、大きなカナリーヤシという木が出迎えてくれる。これは大西洋のカナリア諸島が原産で、いかにも南国といった風情を醸(かも)し出している。これは伊東線開通記念樹として、昭和13年(1938)に植えられたもの。雌雄同株のため、夫婦椰子とも呼ばれている。加えてその前に並ぶ提灯が、いかにも温泉街といった様子なのも悪くない。
駅前ロータリーを回り込み、正面の駅前いちょう通りを下っていくと、いでゆ橋で松川を渡る。慶長9年(1604)に家康の命により、アダムス指揮のもとこの川の河口で、日本初の洋式帆船が造られたのである。
かつて、鎌倉3代将軍・源実朝の命で唐船を模した大船が由比ヶ浜で建造された。しかし船は完成したものの、遠浅の海だったことから進水に失敗、そのまま朽ち果てており、この故事を学んでいた家康は、同じ失敗を繰り返さないよう適地を探させた。
アダムスは「海に注ぐ河口がある」「用材を切り出せる天城山系が近い」「有能な船大工が多い」という理由から、伊東を造船の地に選んだのだ。
その当時、松川河口には厚い砂州があった。そこでアダムスは「砂ドック方式」を採用。これは砂浜に穴を掘り、そこに丸太を敷いてから、その上に船を造る。完成後に船までの水路に海水を引き込み、進水させる方式。これでアダムスは、見事に80トンの帆船を就航させた。試乗した家康はとても満足し、すぐさま120トンの大型ガレオン船の建造を命じている。
翌年には外洋航海が可能な「サン・ブエナ・ベンツーラ号」が完成。
この功績により慶長10年(1605)、家康はアダムスに三浦郡逸見(現・横須賀市)に領地250石と刀2本、脇差を下賜。さらに三浦按針(以下・按針と表記)という名を与え、武士として取り立てた。ちなみに「按針」には、水先案内人という意味があるそうだ。
松川沿いに点在する按針ゆかりの芸術品
いでゆ橋より河口側に架かる大川橋からは、川に沿って遊歩道があり、川口公園と名付けられている。少し広くなった場所には、砂ドックで日本初の洋式帆船を造る様子を描いたタイル絵が埋め込まれていた。
さらに国道135号をくぐると、大海原を背景に按針とサン・ブエナ・ベンツーラ号の像が立つ「按針メモリアルパーク」に出る。天気がよかったので、ここから初島とその前を航行する船と航跡がはっきりと望めた。
「メモリアルパーク」と河口を挟んで向かい合う場所には、たくさんの彫刻が展示されている「なぎさ公園」がある。伊東市の市政30周年を記念して設置された彫刻は、地元の彫刻家・重岡健治氏の作品。「家族」「海の賛歌」といった平和と幸せを希求する姿が表されている。ちなみにメモリアルパークにある按針と帆船の像も重岡氏の作品である。
シャッターが見事なアートに様変わり
伊東の海を目の前にして、按針は故国イギリスへの望郷の念を募らせたであろうか。そんな事を思いつつ、再び松川を渡り大川橋まで戻る。橋から南側には、商店街がまっすぐ延びている。
ここは「あんじん通り商店街」と呼ばれており、大正時代から続く由緒ある商店街だ。漁港と観光で栄えた伊東のかつての中心街であった。片屋根のアーケードがある様子は、ちょっとレトロな風情が漂っている。足元の歩道に目をやると、サン・ブエナ・ベンツーラ号と思われる帆船のタイル絵が埋め込まれていた。
すでに閉店してしまった店もあり、地方に行くとよく目にするシャッター商店街のようにも思える。ただひと味違っていたのが、閉ざされたシャッターに伊東ゆかりの人物や歴史を表す絵が描かれていたこと。地元の高校生や卒業生が描いた絵が、新たな伊東の魅力を発信している必見ポイントなのだ。
貴重な木造3階建ての宿が文化施設に
再び松川沿いに戻ると、大川橋といでゆ橋の中間あたりに、ひときわ目を引き木造3階建ての建造物が目に入る。昭和3年(1928)に創業した名旅館『東海館』だ。大正から昭和初期にかけての、古き良き時代の温泉情緒を伝えてくれる。残念ながら旅館としては1997年に幕を下ろしたが、2001年に観光・文化施設として生まれ変わった。日帰り入浴が可能で、床から壁まで総タイル張りの大浴場は人気が高い。
そんな『東海館』には、三浦按針に関するさまざまな資料を集めた展示室がある。リーフデ号やサン・ブエナ・ベンツーラ号の模型、三浦按針の肖像画、スペイン国王が家康に贈った西洋時計のレプリカなどが見られる。
按針が建造したサン・ブエナ・ベンツーラ号は慶長15年(1610)、乗船が難破したため日本に滞在していた前フィリピン諸島総督ロドリコ・デ・ビベロに、家康より貸与されている。そして浦賀からアメリカ大陸を経て、アカプリコに無事到着。時計はそのお礼に、スペイン国王が家康に贈ったものだ。
『東海館』にいらした観光協会の方によれば、今回のドラマで最初に按針一行が漂着するする網代という名前には、「船を造る地」という意味もあるとか。現在は熱海市にある網代という港町を指しつつ、そのような意味も含んでいるのではないか、と教えてくれた。
そして散歩の締めくくりに、精巧なサン・ブエナ・ベンツーラ号の模型を見るため伊東市役所を訪ねることにした。松川沿いからは少し離れているうえ、高台の上に位置しているのでかなり息が切れてしまった(単なる運動不足でもあるが……)。だが、庁舎1階ロビーに飾られていた模型の素晴らしい姿を見た瞬間、疲れが一気に吹き飛んだ。
次回はウイリアム・アダムスが三浦按針と名乗るきっかけとなった、神奈川県横須賀市を訪れてみたいと思う。
取材・文・撮影=野田伊豆守