神社とお寺が一緒に存在しているワケ

神社に祀られる仏教の仏像。福岡県「浮嶽(うきだけ)神社」。
神社に祀られる仏教の仏像。福岡県「浮嶽(うきだけ)神社」。

インドで生まれた仏教がアジアを通って、日本に入ってきたのが今から約1500年前。

その時点で、日本にはすでに「神道」が存在していました。

同じ場所に2つの宗教が存在すると、どうしても争いが起きてしまいます。

小学校でも教わった「蘇我氏と物部氏の戦い」がまさに、仏教取り入れたい派と、神道を大事にしたい派の争いで、結果は仏教推しの蘇我氏が勝利!

世界を見渡すと、宗教戦争が起こった場合、負けた方は駆逐されてしまうことがよくあります。

しかし日本は、「どっちも一緒にお参りしよう」というやり方で、争いを最小限に抑えて「共存」することにしたのです。

蘇我氏も、勝利してから全国に仏教を広めていきますが、お寺を建てる際には、元々その土地にいた神様が怒らないように、神社を一緒に建てました。

現在、お寺と神社が一緒になっているような場所を、私たちが見かける源流はここにあります。

実は神様も仏様も一緒だよ!と考えた

福島県の「新宮熊野神社」には文殊菩薩像などの仏像が祀られ、神仏習合の名残が。
福島県の「新宮熊野神社」には文殊菩薩像などの仏像が祀られ、神仏習合の名残が。

やがて「神道の神様たちは、仏教の仏様が姿を変えて現れたものだ」と、同一視する考え方まで出てきました。これを「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」と言います。

例えば、和歌山県にある「熊野本宮大社」の御祭神は熊野神という神様ですが、仏教の阿弥陀如来の仮の姿であるともされていて、その場合は熊野権現(くまのごんげん)と呼ばれます。

熊野に限らず、「◯◯権現」という言葉を聞いたことがある方も多いでしょう。これは「仏様が仮の姿として神様になっているんだなぁ」と思っていただければ間違いありません。

さらに、仏教と神道は手を取り合う関係にもなっていきました。中でも、神道の八幡神(はちまんしん)は仏教に近い存在に。

神道の八幡神が造営に協力した奈良県「東大寺」の大仏。
神道の八幡神が造営に協力した奈良県「東大寺」の大仏。

「東大寺」の大仏が作られる際、八幡神が「全面的に協力しますよ!」という託宣(お告げ)を出したほどです。

こうして、2つの宗教が同時に存在し続けるという、世界でも類を見ない信仰のスタイルが日本には根付き、1000年近くの長きに渡って「神仏習合」が続きました。

「神仏習合を止めよう」という流れができた明治時代

福岡県「鎮國寺」もかつては宗像大社の神宮寺だった。
福岡県「鎮國寺」もかつては宗像大社の神宮寺だった。

しかし、そのスタイルに大きな変化が起きたのが明治時代です。

明治元年(1868)に政府は、「国の宗教は仏教ではなく神道だ!」という意思をもって「神仏分離令」を出しました。

それまでの約1000年で深く混ざり合った神道と仏教を分け、神仏習合を禁止しようとしたのです。具体的に言えば、神社にある仏教の要素を徹底的に排除しました。

例えば、それまでは神社に勤めているお坊さんもいましたが、その人々は失職。神社に置かれていた仏具の類も、神社の外のお寺に移されたり破棄されたりしました。

現在は国宝に指定されている奈良県「聖林寺」の御本尊・十一面観音は元々、大神(おおみわ)神社という神社に祀られていましたが、神仏分離令で神社から追い出された歴史を持っています。

廃仏毀釈で仏像やお寺が破壊されまくった

廃仏毀釈でボロボロになった仏像。福岡県「浮嶽神社」。
廃仏毀釈でボロボロになった仏像。福岡県「浮嶽神社」。

この「神仏分離令」を中心として、国が神道を大事にするというメッセージを出したことによって、仏教を駆逐しようという運動が起こります。

全国でお寺や仏像が、燃やされたり破壊されたりするようになった「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」です。

中でも、鹿児島県・宮崎県・岐阜県・茨城県などではとりわけ激しい廃仏毀釈が起こりました。

現在、全国には約7万7000軒ものお寺があり、これはコンビニよりも多い数です。そんな中、岐阜県の東白川村は、日本唯一、お寺のない自治体なのですが、これは廃仏毀釈によって破壊されてしまったためです。

岐阜県にある四つ割の南無阿弥陀仏碑。
岐阜県にある四つ割の南無阿弥陀仏碑。

東白川村役場の前には、「南無阿弥陀仏」と書かれ4つに割れた大きな石碑があります。これは、仏教を大事にしていた村人が、お寺にあった大切な石碑を廃仏毀釈で破壊されないように、自ら4つに割って土に埋め、階段のように見せかけて隠したためです。

破壊運動が収まってから、こうして元に戻されましたが、そこにはもうお寺は失くなっていたのです。

仏教美術に再び光を当てた2人

八幡神(応神天皇)の生誕の地、福岡県「宇美八幡宮」。
八幡神(応神天皇)の生誕の地、福岡県「宇美八幡宮」。

そんな激しい破壊活動も、約10年で収束します。

しかし、文明開化の名の下に西洋の文化が流れ込んできていた日本では、「最先端の西洋のものが素晴らしくて、古くからある日本の文化はレベルが低い」という考え方が広まっていました。

そのため、廃仏毀釈で壊されたお寺などの復旧も遅々として進みません。今では国宝に指定されている奈良県「興福寺」の阿修羅像も、床に捨てられたままだったといいます。

東京都豊島区「染井霊園」にある岡倉天心の墓。
東京都豊島区「染井霊園」にある岡倉天心の墓。

そんな危機を救ったのが、岡倉天心・フェノロサの2人。

日本美術の研究をしていた2人は、廃仏毀釈で捨てられたり、海外に流出していた仏像をはじめとする日本美術を改めて評価したのです。

さらに岡倉天心は「優れた日本の美術品は、後世まで守っていかなければいけない」という思いで活動しており、その信念は明治30年(1897)に発行された「古社寺保存法」に反映されています。

この法律は、現在の「文化財保護法」に通じていて、私たちが古い仏像や美術品を、綺麗な状態で見られるのは、岡倉天心がいたからなのです。

神道と仏教が混ざり合って、わかりにくくも感じる日本の宗教。しかしそこには、争いを避けようとする優しい精神が隠れていました。

神社とお寺を区別する現代ですが、お寺と神社が一緒になっている場所などで、見え隠れする神仏習合の名残を感じてみるのも、いい散歩になるかもしれません。

写真・文=Mr.tsubaking