修験道の聖地・金峯山
御嶽詣とは何か。それは身を清めて吉野の金峯山(きんぷせん)へ参詣しに行くことである。平安時代当時、金峯山は、修験道の聖地として人気を博していた。が、ここの参拝ルールはとても厳しかった。
- 50〜100日ほど身を清める修行をしてから山に入らなくてはいけない。
- 貴族であっても、絶対に質素な装束で山に入らなくてはいけない。
そんなルールを皆守って参拝していたのだ。実際、史実の道長も70日ほど参拝前の修行をしていたらしい。その期間政治に関与できていないのはいいのだろうかと思わないでもないが……。しかしそれくらい人気のある祈願だったらしい。
派手な衣装で御嶽詣に向かった宣孝
さて、そんな御嶽詣。『光る君へ』に登場するのははじめてではない。
覚えているだろうか。以前、紫式部の亡き夫・藤原宣孝(『光る君へ』では佐々木蔵之介が演じていた)の御嶽詣にまつわるエピソードが描かれていたのだ(第十三回)。
ドラマを見れば分かる通り、御嶽詣は「質素な白装束」でおこなうのが普通だ。しかし宣孝は、よりにもよって山吹色の派手な衣装をまとっていたという。『枕草子』にはこんな痛烈な描写がある。
〈訳〉
藤原宣孝さんという方は、
「白装束なんて普通すぎる! 素敵な服を着て参拝したほうがよくない? 御嶽さまが『質素にしてね』なんて言ったわけでもあるまいに」
と言ったらしい。
3月末、彼は真紫の袴、真っ白のあわせ、そこに山吹色の派手すぎる衣装を目立たせて、参拝していた。ちなみに息子には青色に赤色をあわせた衣服に袴は柄入り。それでふたり並んで歩いていた。
〈原文〉
右衛門佐宣孝といひたる人は、「あぢきなき事なり。ただ清き衣を着て詣でむに、なでふ事かあらむ。必ずよも『あやしうて詣でよ』と、御嶽さらにのたまはじ」とて、三月つごもりに、紫のいと濃き指貫、白き襖、山吹のいみじうおどろおどろしきなど着て、隆光が主殿助なるには青色の襖、紅の衣、摺りもどろかしたる水干といふ袴を着せて、うちつづき詣でたりける
(『枕草子』〈角川ソフィア文庫〉より原文引用、訳は筆者意訳)
さすがに山吹色で参拝する人なんて見たことない……目立ちすぎだろう……と周囲は唖然としたらしい。が、結局この参拝の後、宣孝は筑前守に任命された。そう、参拝の御利益があった!! ということになったらしい。本当かよ、と清少納言は苦笑するかのようにこの章をこんな文章で締めている。
「男女共に、若くて素敵な人が、真っ黒な喪服を着こなしているのがいいよね……」
明らかに山吹色を着た宣孝への痛烈な皮肉で、少し笑ってしまう。
が、まあそれくらい御嶽詣は当時の貴族に流行っていたらしい。藤原道長も例に漏れず参拝した人物のひとりだった。
道長が御嶽詣をおこなった理由
ちなみに史実の道長といえば、御嶽詣をおこなった理由が、娘の彰子の妊娠祈願だったのかどうかは、実は明らかになっていない。もしかしたら厄除だったのかもしれない。当時は厄年になると御嶽詣をする風習があった。
しかし道長は厄年でもなく、さらに実は少し体調を崩しかけていた。当時の『御堂関白記』には、「頭風」「咳病」「眼病」「腰熱」などの症状が見られる、と記載されている。そう、決して本調子ではなかったのだ。
しかしそれでも彼は、今の奈良県にある金峯山まで登る決意をした。左大臣がそんなに都を空けて大丈夫なのか? とツッコミを入れたくなるが、当時はそんなことより妊娠祈願の方が重要だったらしい。
実際に歩き始めると、道中はずっと雨が降っていたという(片山剛「藤原道長の宗教心」2015年、千里金蘭大学紀要12)。か、かわいそう。
だがそんな雨をものともせず、結局道長は無事に参拝から帰ってきた。現代人の感覚からすると、政治の場を2カ月以上空けて奈良まで歩いて修行しに行くなんて、不思議な気がするが、そこまでして何かを願うことそのものが、当時の人々にとっては重要だったのかもしれない。
ちなみに現在も奈良の吉野には金峯山寺があり、さまざまな参拝者が訪れているという。吉野に行った際は訪れてみると……平安時代気分が味わえるかもしれない。
たまたまた身内が金峯山を登ったことがあるというので、今回はその際の写真を最後に掲載して終わろう。ちなみに現在も一部は女人禁制なので、その点のみご注意を。
文=三宅香帆 写真提供=三宅香帆、PhotoAC