百人一首の歌人・和泉式部のモテっぷり

和泉式部といえば、小式部内侍(こしきぶのないし)の母としても知られているが、なにより有名なのは百人一首の歌人であることだろう。が、私は、彼女の重要情報は、和歌の名手であることよりも——とんでもなくモテたことであると考えている。

そのモテっぷりは、和泉式部の夫遍歴を見れば一目瞭然。

現代でも分かっている和泉式部の夫遍歴は、こちら。

①橘道貞(和泉守)(※小式部内侍出産)→②為尊親王③敦道親王→④藤原保昌

そう、和泉式部といえば、直接的な言い方を許してもらえるならば——「親王」から「親王」へと乗り換えた、おそらく史上初の女性なのだ。

つまり和泉式部は、前代未聞の「同母兄弟間の親王ふたりと恋愛した」女性。さすがの平安時代でも前代未聞。しかも和泉式部自身はそこまで身分は高くない。なのに親王ふたりと熱愛をかますスキャンダルなヒロイン、それが和泉式部だったのである。しかもその和歌を堂々と『和泉式部日記』に載せて公開している。スキャンダラスにもほどがあるだろう。

ちなみにこの日記は、②為尊親王が亡くなってから始まり、③敦道親王と恋愛が始まり盛り上がっていく様が綴られている。まさに世間が気になるところを日記にして世にラブレターを公開する女性……。千年以上経ってもしみじみ思う、すごい女だ……。

「こんなに切なくなった朝は、人生ではじめてなんです」

では和泉式部はなぜそこまでモテたのだろう? 『和泉式部日記』を読むと何となくその理由がわかる。実際に、為尊親王がまだ亡くなって1年しか経っていない時期の日記を見てみよう。

 

〈訳〉
どうしようもない夜を過ごした。夜が明けると宮はお帰りになったかと思いきや、帰るや否やすぐにお手紙をくださった。

「今、何をしているのですか。不思議なくらい、恋しいです」

と書いて、和歌が詠まれてあった。

恋というと、なにかありふれた出来事のように思うでしょう。ならば今朝の気持ちはなんと表現すればいいのでしょう? こんな感情抱いたことがないのに

私はお返事を、

この恋が、ありふれた出来事、なんて絶対言えませんわ。だって私、こんなに切なくなった朝は、人生ではじめてなんです

と送ったのだけど、

「なんでこんな運命になっちゃったんだろう、亡き宮様はあんなにも私に言葉をかけてくださっていたのに……まさか弟さんにこんなふうに想いを寄せてしまうなんて、私」

と悲しくなって、悩んでしまった。

そうしていると、いつものように手紙を届けてくれる童がやってきた。

〈原文〉
いとわりなきことどもをのたまひ契りて、明けぬれば、帰り給ひぬ。すなはち、「今のほどもいかが。あやしうこそ」とて、

 (宮)恋と言へば世のつねのとや思ふらん今朝の心はたぐひだになし

御返り、

 (女)世のつねのこととも更に思ほえずはじめてものを思ふ朝は

と聞こえても、「あやしかりける身のありさまかな、故宮の、さばかりのたまはせしものを」と悲しくて思ひ乱るるほどに、例の、童来たり。

(角川ソフィア文庫『和泉式部日記 現代語訳つき』より原文は引用、現代語訳は筆者作成)

 

そう、つまり1年ほど前に亡くなった夫への未練が綴られるのかと思いきや、まさかの同母弟とのめくるめく恋愛の日々が綴られているのだ。『和泉式部日記』を初めて読んだ当時の読者の衝撃を想像せずにはいられない。先進的すぎるだろう。

『和泉式部日記』からモテた理由をひもとく

だが……そんなスキャンダラスさを一度横においてこの日記を読んでみると、面白いことがわかる。注目すべきは、和泉式部の「世のつねのこととも更に思ほえずはじめてものを思ふ朝は」という和歌だ。

この歌を読んだ時、私はなんとも痺れてしまった。だって、ここで「はじめて」と言える女子がこの世(?)に何人いるのだろう⁉

敦道親王は、言うまでもなく、彼女と亡き兄の関係を知っていただろう。しかし、和泉式部はそんなことは和歌におくびにも出さない。それどころか、「こんなに切なくなった朝は、生まれて初めてだ」と語るのだ。

この和歌を「計算してあざとく詠んでいる!」と言う人もいるだろうが、私はそうは思わない。むしろピュアに詠んだからこそ、こんな和歌が出てくるんだろう、と思う。本気で目の前の恋愛に真剣で、だからこそ「はじめてだ」と堂々と語ることができるし、それを和歌にしてそこに想いを載せることができる。和泉式部はそういう人だったのだろう。そして、だからこそモテたのだろう。エネルギーの高さが、日記を通して伝わってくる。そういう書き物は、なかなかない。

『和泉式部日記』を読んでいると、和泉式部のピュアな言葉の力に心をつかまれてしまう。そして、千年後の私ですらこんなに心をつかまれているのだから、いわんや千年前の人は……。そりゃあ夫が何人もいるよな、と思う。

和泉式部ゆかりの寺

ちなみに、京都の新京極通の寺院・誠心院は、「和泉式部寺」と呼ばれている。和泉式部は老後そこに住んでいたらしい。

しかし面白いのは、和泉式部の墓といわれている場所は全国各地にあることだ。しかもそれぞれに伝説が残っている。もはやどれが本当のお墓かわからないらしい。……私はもはや和泉式部推しの信者(?)たちが、和泉式部を想って、全国各地にお墓を建てたのではないかと思っているのだが、真相はわからない。それくらい、さまざまな人の心をつかんだ女性であることは間違いない。

文=三宅香帆 写真=PhotoAC

京都を歩いていると、ふと、物語の世界に入り込んだような心地になる。というのも、『源氏物語』に出てくる場面の舞台が、あるいは『紫式部日記』に登場する場所が、そこら中に存在しているからだ。京都の魅力は、歴史と現在を分け隔てないところにある。千年前の物語に描かれていた場所が、現代の散歩コースになっていたりするのだ。物語を通して眺める京都は、なんて魅力的なんだろう、とたまに惚れ惚れする。
「推し」という言葉が流行して以来、「そういえばあの古典文学に描かれていた関係性も、いわゆる『推し』というものだったのではないかしら」と思うことが増えた。その筆頭が、『枕草子』である。
紫式部と並び、平安時代の優れた書き手として知られるのが、清少納言。言わずと知れた『枕草子』の作者である。『枕草子』といえば、「春はあけぼの」といったような、季節に関する描写を思い出す人もいるだろう。が、実は清少納言が自分の人間関係や宮中でのエピソードを綴っている部分もたくさんあるのだ。そのなかのひとつに、大河ドラマ『光る君へ』にも登場する藤原公任(きんとう)とのエピソードがある。今回はそれを紹介したい。