悲しいことがあると、ひらく『河太郎』の写真。生け造りにされたあのイカはやさしい目をしていた。
はじめての九州は30 年ほど前だ。福岡県の中洲で食べた1杯のイカが、世界は地続きではなく、九州は日本の他のエリアとは根本的な何かが違うことを教えてくれた。
関東の白濁した身しか知らぬ生イカの、透き通りし柔肌よ。コリリと噛めば、味の濃密さ、やがて来る甘さ。美味。はじめてのイカ。すべてが知らぬイカだった。
店の名は『河太郎』といった。中洲に店を構えて半世紀。チェーン店に括るなど畏れ多い“イカの活き造り”の発祥を謳(うた)う超有名店である。店舗は中洲を本店に、博多駅とイカの聖地・佐賀は呼子。PayPayドーム前の商業施設には2020年に『九州 はかた 大吉寿司』なる回転寿司をオープンし、ホークスはイカまで強いのかと絶望したものだ。
この味を知ったら、もう他のイカには戻れない
中洲のど真ん中にあっても、日本屈指のイカの聖地、佐賀県は呼子のイカを、新鮮なままに食べさせるため生まれた生け簀&活き造りというライブスタイル。それは水温や環境でストレスを感じ、すぐ死ぬイカという超ナイーブボーイをほぼ非接触の一太刀で捌くことで、鮮度を保ったままイカ本来の旨味・甘みを引き出す。でもどうせ鮮度にこだわるなら、日本で唯一のイカと魔法の国、イカすイカ天国“YOBUKO”の店まで足を延ばしたい。
一度だけ行ったことがある。佐賀県の最北部。対馬海流と黒潮に揉まれたその町は、漁港の入り口からして「イカ踊る町」の看板が掲げられた踊り食い推奨の地だ。のどかな漁港のあちこちには、クリスマスツリーに吊るされたかのようなイカが、永久機関のように風でぐるぐると回っている。さらにイカの即売、イカの生け簀、イカバーガーに、イカしゅうまいの『萬坊』もある四面イカ。とにかくイカしかない。
日本三大の誉れ高き朝市を抜け、海に面した半島の突端に『河太郎』はある。街は閑散としていても店の前には人だかり。平日の昼間なのに1時間待ちだ。待ち時間に観光で遠出する人でもいるのか、スピーカーで呼び出される整理番号は、山の上にも聞こえそうな爆音だ。
店に入ればど真ん中に大型の生け簀。季節によって剣先、アオリ、ヤリイカと旬のイカが変わるが、オーダーが入れば網で掬いそのまま捌く即即スタイル。
イカの活き造りに、刺し身の三点盛りと煮つけ、小鉢のイカしゅうまいなどがついた河太郎定食は4600円。いか活き造り定食は2900円となかなかの値段だが活き造り単品で2420円と考えると、安いような気もする。なぜってアレが来るのだ。クリスタルの如(ごと)く神秘的に透き通る美肌の主が、船盛りにのってやってくる。ジム・モリソンもびっくりの水晶のイカ釣り船。ひと口、ふた口。まだ動いている透き通った身を口にするたび、煌(きら)めく至福の瞬間。秒ごとに白くなっていくイカの身に、時間と鮮度の概念を捉え、口中は宇宙の彼方、イカ噛んだるで! イカカンダルで!へと飛び立っていく。なんて幸せだ。
それが終われば、心のイカりやが登場。「はい、後半参りましょう、後半しゅっぱーつ」と、ゲソの部分を、天ぷら、塩焼き、全刺し、煮つけのどれかで後造りだ。この、ひと粒で二度おいしい「なんか得した感」がすさまじく得した気分。とはいえ、塩焼き、煮つけってなんだ、とそそられながらも、結局天ぷらしか食べたことがない。なぜならこの美味を知ってしまった以上、他の選択肢など選べない。私たちはまた会うのだ。そしていつものように、カラッと揚がったゲソの天ぷらを、最初は塩で、その後塩にレモン汁、最後にわさび醤油で食べては三段殺しにされる。もう他のイカは食べられない。イカごみに流されて、変わってゆく私を、あなたは時々遠くでイカって……。
目が覚めたら夢だった。テレビでは緊急事態宣言が延長したというニュース。画面の向こう側で、またしても河野太郎がイカっていた。また連絡するよ。
文=村瀬秀信
『散歩の達人』2021年4月号より
『地方に行っても気がつけばチェーン店ばかりでメシを食べている』(講談社文庫)にも収録されています