一品350円! チケットでわくわくスタイルの立ち飲み屋
待ち合わせはJR板橋駅の東口。「レッスンのあとお衣装替えをしていたら遅れちゃって、申し訳ございません!」ときらきらの大門さんが現れ、キュンとした。取材のためにおしゃれして来てくださる心がこんなにもうれしい。
彼女が連れだしてくれたのは、板橋駅から20歩くらいのところにある『立ち飲み BEBE』。到着した18時半にはすでに混み合っていた。小さな店内からゆるく外にひらけており、半分外飲みのような空間がきもちいい。梅雨入り前のさわやかな暑さは、外飲みを加速させる。
このこぢんまり感、よそ者が入るにはちょっとハードルが高いかもと不安にな……ったのもつかの間、すでに酒の進んだみなさんがあたたかくも気遣いすぎずにいてくださり、すんなりと気楽になる。
『立ち飲み BEBE』はチケット制だ。2000円で350円×6枚のチケットを購入し、ちぎりながら注文していく。このスタイル、なんだか文化祭みたいでわくわくしちゃいますねー!
基本的にドリンクも料理もチケット1枚で一品注文することができる。メガジョッキの場合はチケット2枚。料理は常時50品ほど用意されていて(仕入れの状況に応じてメニューは変動)、選ぶのが悩ましくも楽しい。
素敵だと感じるものを、そのときめきのままに
まずはみなさんと乾杯! ああ、コロナ禍を経験した酒飲みは、なんだかこの絵を見るだけで泣き出してしまいそうになりませんか。
乾杯のよろこびをぐいと飲み下し、さっそく大門さんの暮らしについて聞いてみる。さきほどレッスンという言葉がありましたが、それはオペラの、ですか?
「そうです! イタリアに住んでいる日本人の先生から毎週オンラインでレッスンを受けていて、年1回くらい直接指導をしていただいてます。先生のことはSNSで存在を知って、私からレッスンをお願いしました。イタリアのオペラ界の第一線で活躍できる日本人って本当にめずらしいんですよ」
イタリアで活躍するオペラ歌手から毎週レッスンを受けられる……つくづく思う、いい時代だ。大門さんは高校時代「特別な声を持っている」と言われたことをきっかけに、声楽に進もうと決めた。専門的に学ぶうち、イタリアのオペラに惹かれていったという。
「イタリアの人たちは何事もあきらめないイメージですね。イタリアのオペラにもそういう印象がありまして、作品中の物語も人間模様がおもしろいんです。登場人物たちがとにかく情熱的で強くて、何があってもめげないというか(笑)。そういうところが素敵なんです。私もいつかイタリアでオペラをやってみたいなあ」
ほほお……聞いて初めて気付いたが、私はオペラのことを何も知らなかった。そもそもオペラのことを、歌を聴くもの、つまり広いジャンルでいえば音楽だと思っていた。でも大門さんによれば、オペラは音楽や演劇など複数の芸術をかけあわせて作られる総合芸術だ。セリフを歌うことで表現し、ストーリーが進行する。
「オペラっておもしろいんですよ!歌詞がイタリア語でも、舞台に和訳が表示されてストーリーがわかるようになってたりもしますから、きっと初めてでも楽しいはず」
この店に入るときもそうだったのだが、大門さんは新しい世界に入っていくハードルをすっと下げてくれる。ぐいぐい来るわけでも配慮しすぎるわけでもなく、ただ素敵だと感じるものをそのときめきのままに教えてくれるのだ。彼女のそういう澄んだところに導かれ、私はまんまとイタリアのオペラを見てみたくなってしまった。
『立ち飲み BEBE』は深呼吸できる場所
オペラ歌手として舞台公演をしたり、結婚式やイベントで歌ったりする仕事のかたわら、大門さんは3つの飲食店で働いている。いやいやほんとは歌の仕事だけしてたいですよ、と笑いながらもすでに7、8年も続いているのだから、きっと飲食店の仕事も向いているのだ。
「職場のみんながいい人だったりおもしろい人だったりで、辞められないんです。もちろん大変なこともありますよ。たとえば『モモタイ』では、店長がタイ人のシェフのミスを強めに指摘したら、シェフが怒って来なくなっちゃったことがあって……家まで訪ねていって説得したり(笑)」
いろんなことがありますけどやっぱり楽しくて、ふふふと笑いながら話してくれるエピソードのひとつひとつが、大門さんから誰かへの愛、そして誰かから彼女への愛に包まれている。
芸事をきわめる人が生きる金を稼ぐために他業界でも働くことはよくある話なのだが、そこでは何か“割り切り”のような考え方になることが多い。大門さんを見ていると、歌うことと飲食店に立つこと、どちらも彼女にとって重要なもののように感じられた。
「『立ち飲み BEBE』さんは私にとって、深呼吸できる場所なんです。まず店主の本庄さんのお人柄がすばらしくて、そこに惹かれて集まってくるお客さんたちも本当にみなさん素敵な方々ばかりで。ここでお酒を飲んで誰かとお話ししているときは、深く息ができるというか」
はじめて訪れて1時間ほどで言うのもなんですが、それ、わかります。だって本当にみなさん素敵なんですもん……。
飲んでいるお客さんたちが、当たり前みたいに店のシステムやメニューを説明してくれる。本庄さんはてきぱき手を動かしながら、にこにことそれを見守っている。常連だらけなのに、新しく訪ねてくる客に気負わせない「ひらかれた店」。くーっ! 近所に住んでる人いいなー!
「ここの営業時間はいつも私も働いちゃっててあまり頻繁には来られないんですが、オペラのレッスンの日だけはその後を空けているので、深呼吸したい日に来ますね」
いくら大門さんが人好きであっても、毎日店に立ってさまざまな人を相手に接客していればぐっと我慢を強いられることもある。たまにここに来て深呼吸をし、誰かと話しながら飲んだり食べたりするのって楽しい、とあらためて確認できる。こういう場を持っていると心強いだろうな。
リーズナブルに飲めるだけではない味わい
2000円分ってあっという間かな? と思っていたのだけれど、なんと閉店時間までしっかり居られてしまった。チケットが残った場合は次回に持ち越せるため、一杯だけ飲みたい人でも安心して購入できる。
今日この店で会ったのは、もちろん仕事も年齢もばらばらな人たちだ。でも、とにかくみんなが笑っていた。ずっと全員でしゃべっているわけではなく、たまにどこかで会話がまとまっては、またほうぼうにばらける。そんな流動するおしゃべり空間が心地よい。カウンターの立ち飲み屋でこそ出会えるちょうどいい距離感を、店主とここに来る人たちはよく知っているのだろう。
帰り道、大門さんと他のお客さんが板橋駅まで私を見送りにきてくれた。おなかもいっぱいで、ほどよく酔い、親しみやすくもさっぱりとした人との交流に心が満ちている。大門さんが言った深呼吸の意味を心身でよくわかった気がした。
常連の多い小さな店に入っていくのは勇気がいる。でもそういう飲み屋にあこがれの気持ちもある……そんな自分と同じような人がいたら、大門さんのようなまっすぐなときめきをもって私も『立ち飲み BEBE』をおすすめしたい。「『さんたつ』の記事を見てきたんです」とひとこと言えば大丈夫。気張らず身を委ねていれば、あなたもきっと味わえるはずです。
あとどなたか、一緒にオペラ観にいきません?
取材・文・撮影=サトーカンナ