『新横浜ラーメン博物館』。日本におけるラーメンの殿堂。北は北海道から南は沖縄まで、ご当地の一杯が集まる、今日の全国に広がるフードテーマパークの先駆け的存在である。相鉄のおかげで久々に訪れたラー博。何年ぶりだろう。看板を見れば、2024年の3月で30周年を迎えたとか。
ラー博、30年か。そう。オープンは1994年3月6日。高校の卒業式から5日後のことだ。
あのオープンの大騒ぎと大行列はよく覚えている。高校を卒業して、大学にも行けなくなり、実家にも居づらくなって、自意識でパンパンになっていた俺は、その後「あいつは何かデカいことをしているらしい」と噂になりたいがためだけに放浪の旅に出かけるのだが、その手始めに訪れたのが“日本全国のラーメンが集結している”と噂のラー博だった。
そうだ。時はおりしもラーメンブーム。他にやることも、誇れることもないもんだから、ラーメン通を自負してね。今もありありと蘇るにがりの塊を口に突っ込まれたような青春迷子のエグみ。
だが、そんな私欲に塗(まみ)れた若僧をも、ラー博の世界観は包み込んでくれた。階段を降りれば現世と隔絶された昭和33年に作り込まれた夕焼けの町並み。そこに、札幌「すみれ」、喜多方「大安食堂」、阿佐ケ谷「げんこつ屋」、環七「野方ホープ」、目黒「支那そば 勝丸」、横浜「六角家」、博多「一風堂」、熊本「こむらさき」(唯一オープンから現在まで出店中)の8店。その後、ラーメンの歴史に名前を残す名店ばかりだ。当時は博多豚骨とくるまやぐらいしか見分けのつかなかった俺も、ものすごい行列に気圧されながら、並んでは食べたまだ見ぬ日本全国の味。あの感動。あのおいしさを昨日のように思い出すのだ。
30年経っても変わらない、懐かしい夕暮れの街
はじめて訪れたあの日から、何度も何度も通った。駆け出しのライターの頃は情報誌の取材で食いつながせてもいただいた。20年ほど前に、とんでもなく当たると評判の占い師がいて「完全な大器晩成型」と言われたことを心の拠り所として生きてきた。まだ思い当たる「晩」はきていない。それとももう終わってしまったのか。あの占い師、名前聞いておけばよかった。
俺はまた階段を降りる。2023年12月のラー博。階段を降りると30年前と同じ、時の止まった昭和33年の夕焼けの街があった。いつか両親と来た時に「懐かしい」と言っていた光景。ちっとも知らないハズなのに、変わらない街の姿に同じ感情を抱いてしまった奇妙な感慨。タバコ屋、電話ボックス、紙芝居、干しっぱなしのシミーズ。止まったまま迷い込んでしまったような異世界は筋肉少女帯のアルバム『ステーシーの美術』のジャケットにもなっていたことを思い出した。資料コーナーには若い頃に書いたラーメン雑誌が並び、だいぶ昔の『散歩の達人』もあって幾重にも「懐かしい」が襲い掛かって来る。
トドメは2022年からはじまった30周年企画「あの銘店をもう一度」だ。過去に出店した約30店舗が2年を掛けて、各店3週間ずつのリレー形式で出店する試み。そのなかでも、当初は誰も成功するとは思わなかった「フードテーマパーク」という無謀すぎる船に果敢にも乗り込むことを決断した創業8店舗に敬意を表し「94年組シリーズ」として3カ月ごとに展開。ラー博や横アリができる前の新幹線が止まる荒野でしかなかった新横浜を全国から人が集まる土地にしたことに、彼らの功績も決して少なくはない。
コンセプトは1994年当時の味の再現だという。今の時期は喜多方の『大安食堂1994』。滋味深い。ああそうだ。30年前。俺はここで喜多方ラーメンをはじめて食べたのだった。この施設のどんな仕掛けよりも、書いた雑誌よりも、あの日「うまい」と感じた舌は、鮮烈な記憶を今に呼び起こしてくれる。
カップラーメンは3分もありゃできる。飲食店は3年以内になくなるのがほとんど。30年続くラーメンはそうない。それが大きなハコものならオンリーワンだ。これまでも後続のフードテーマパークが出現しては消えて行った。ラー博がなぜ生き残り、コロナ過の危機からも立ち直り今も全盛期の盛況を続けていられるのか。ラーメンという文化を、愛し、守り、伝えていく、ここまで狂気じみた気概を感じる場所は日本のどこにもない。30年間、来るたびに思い知り、そして尊敬する。やっぱりラー博。さすがラー博。ラーラーラー。
文=村瀬秀信
『散歩の達人』2024年1月号より