ブギーより大切なもの
この年のレコード売上げ第1位はフランク永井の『有楽町で逢いましょう』、2位は美空ひばりの『港町十三番地』。しっとり聴かせるムード歌謡や演歌調が流行っていた。
騒々しく猥雑な「終戦直後」の終焉とともに、ブギーのリズムは街から消えて、歌手・笠置シズ子も過去の人となりつつある。
だが、シズ子にはブギーの女王として世に君臨することよりも大切なものがあった。それを守るために、引き際について考えるようにもなっている。消えるには、ちょうど良いタイングだったのかもしれない。
恋人の吉本穎右(えいすけ)が存命なら、もうとっくに歌手を廃業していただろう。彼女の妊娠が判明した時、穎右の母・吉本せいは芸能界引退を条件にふたりの結婚を認めていた。
その条件を飲んで、親子3人で暮らすために東急玉川線の松陰神社前(現在は東急世田谷線の駅)に中古の一軒家を購入。風呂好きだった穎右のために、大きな風呂桶も新調していたのだが。
しかし、昭和22年(1947)5月20日、シズ子のもとに訃報が届く。結核を患っていた穎右が、大阪の病院で亡くなってしまう。それから2週間後に彼女は娘を産んだ。シングルマザーとなったシズ子は、娘を養うために歌いつづけねばならない。
歌うこと以外に、彼女は金を稼ぐ手段を知らなかった。娘のために。そう思えば力が湧き、特徴的な地声がさらに強く響きわたる。日本中がブギーのリズムに酔いしれて、レコードは売れつづけた。映画や舞台からもオファーが殺到する。
気がつけば、長者番付に名をつらねる高額所得者になっていた。蓄えも十分にある。これで娘の将来も安泰、となれば……すでに目的は達している。
安堵してモチベーションが低下すれば、歌声にも陰りがでてくる。また、彼女のウリである激しく踊りながら歌うスタイルは、年齢的にもキツくなっていた。
人気歌手という立場は私生活での弊害も多い。何かと世間からの注目が集まり、忙しすぎて家でゆっくり過ごすこともできない。娘と一緒に暮らす時間をもっと大切にしたい、と。そんな思いもあったのだろう。
『買物ブギー』が45万枚を売り上げ、ブギウギのブームが最盛期だった昭和25年(1950)に、シズ子は300坪の土地を購入している。翌年にはそこに新居を建てた。その場所は現在の住居表示では、世田谷区弦巻1丁目となっている。
シズ子が求めた”安住の地“
シズ子は戦前から東急玉川線の三軒茶屋に住んでいた。そこから玉川線に乗って松陰神社前駅で降りた徒歩圏内に、彼女が建てた新居はあった。穎右が存命中に購入した家もこの界隈、昔から土地勘があったのだろう。住み心地がよくお気に入りの場所だったようである。
松陰神社前駅の商店街を抜けて、そのまま駒中通りを南へ。駒沢小学校の方角をめざして歩く。この道筋にシズ子の家はあった。武蔵野台地の南縁にあたるこの地域は起伏が多く、登り下りの坂道がつづく。
昭和20年代の空撮を見てみる。松陰神社駅付近の道沿いは建物が密集している。が、表通りから一歩裏に入ると、畑や林がそこかしこに見られる。駅前から300mほど南下してシズ子の家の付近まで行くと、メインストリート沿いの家並みも途切れて、田畑の中にぽつんぽつんと家が点在している感じ。おそらく当時は「農村」といってもいい眺めが広がっていたはずだ。
しかし、当時から所々に小さな家々が整然と立ち並ぶ区画も確認できる。この後、爆発的なマイホーム建設ブームが起こり、私鉄沿線は宅地開発が進み建売住宅が乱立するようになるのだが。この頃からすでにその兆候が見てとれる。
さらに、10年後の昭和30年代の空撮を見ると、田畑はほぼ消滅して家々が密集する住宅地に。田圃の畦道は舗装されて路地に、また、小川もコンクリートで蓋をされた暗渠になっている。
昭和20年代は27〜28万人だった世田谷区の人口が、昭和30年(1955)になると52万3630人、昭和35年(1960)には65万3210人に増えている。のどかな農村の風景は市街地となり、激変する風景に昔からこの地に住んでいた人々は戸惑っただろう。シズ子もそれを目の当たりにしていたはず。彼女は何を思ったか?
シズ子が住んでいた家は、敷地面積からすると小ぶりな40坪の平屋建て。そのぶん庭は広い。彼女は庭をすべて花壇にして花をいっぱい植えていた。花はすべて自分で栽培していたという。
歌手引退後も女優としてドラマや舞台に出演していたが、時間にはかなりゆとりができた。愛する娘と一緒に過ごす時を大切にしながら、庭仕事にあけくれる日々。
雑草を摘むのに必死になるあまり、顔や爪は泥だらけ。派手な衣装と化粧で唄う姿とはギャップが激しすぎる。汗と土にまみれて花壇の手入れをする彼女の姿を見て、誰もそれが『東京ブギウギ』で一世を風靡した笠置シズ子とは思わないだろう。
花の栽培は一番好きな趣味にもなっていた。とくにバラの花を好み、色とりどりのバラで庭を埋め尽くした。近所では「花屋敷」「笠置ガーデン」と呼ばれて評判になり、道端から花を鑑賞する人々が絶えない。また、付近の小学校の先生から「理科学習に使わせてほしい」と請われて、子供たちを招き花壇を見学させたこともあるのだとか。
愛娘と一緒に好きな花に囲まれて暮らす、幸福な晩年を過ごしていたようだった。
小さく質素な墓石に、シズ子の思いが宿る
昭和56年(1981)2月15日の「サヨナラ日劇フェスティバル」最終日、シズ子はステージに上がって挨拶している。この日をもって日劇は閉館し、跡地には3年後に有楽町マリオンがオープンする。
戦前のSGD(松竹楽劇団)にいた頃からずっと日劇の舞台で唄ってきた。満員の客席が『東京ブギウギ』に沸き立つ眺めが、いまも目に焼きついている。ここが歌手・笠木シズ子のホームグラウンドだった。
前年には山口百恵が引退し、それと入れ替わるように歌手デビューした松田聖子がヒットを連発。この年には”ぶりっ子“が流行語となっていた。翌年になると小泉今日子や中森明菜がデビューして、歌謡界はアイドル黄金時代に突入する。
楽曲にあわせた振り付けで踊るのはアイドル歌手の必須条件だが、それを最初にやったのがシズ子だった。直立不動で唄う歌手ばかり観てきた観客は、奔放に踊りながら唄うシズ子の登場に度肝抜かれた。いわばアイドルの元祖なのかも。
後輩たちの活躍をシズ子はどう見ていたのだろう。しかし、それについて語ることはなかった。「サヨナラ日劇フェスティバル」で舞台挨拶をした後、彼女が公の場に姿を現すことはなくなる。
日劇閉館から間なくして乳がんを患い、その後は再発を繰り返して療養の日々。昭和60年(1985)3月30日に命尽きてしまう。享年70だった。
シズ子の墓は、京王線・明大前駅からほど近い築地本願寺和田堀廟所にある。
「寂静院釋尼流唱」と刻まれた戒名が、彼女のイメージとよく似合う。しかし、一時代を築いた大歌手の墓とは思えない、こぢんまりとして質素な墓だった。注意して見ていないと、つい見落として素通りしそうになる。
彼女はそれを望んでいたのだろうか。歌手引退後は、愛する娘と一緒に静かにのんびり暮らしたい。できるなら、世間も自分の存在を忘れてほしい……と。
取材・文・撮影=青山 誠