服部良一と出会った帝国劇場の楽屋

関東大震災後は私鉄沿線の宅地開発がさかんになり「東京」の街は、西方の郊外にどんどん広がっていた。また、ショービジネスの中心も東から西へ……1930年代には、日比谷界隈に大劇場や映画館が次々にオープンして、浅草の地位を脅かすようになる。

有楽座や日比谷映画劇場があった場所は、現在「日比谷ゴジラスクエア」となっている。
有楽座や日比谷映画劇場があった場所は、現在「日比谷ゴジラスクエア」となっている。

日比谷における松竹の本拠は帝国劇場だった。これは渋沢栄一や伊藤博文らが発起人となり、明治時代末に完成した日本初の西洋式劇場。ルネサンス様式の巨大建造物は東京名所のひとつとなり、大戦景気に沸いた大正時代には、

「今日は三越、明日は帝劇」

と、流行歌『コロッケの歌』にもうたわれた。華やいだ時代の象徴だったが。関東大震災で被災して改修工事の費用が捻出できず、昭和5年(1930)には松竹がここを借りて洋画を上映する映画館として使うようになる。

現在の帝国劇場は昭和41年(1966)に完成した2代目になる。
現在の帝国劇場は昭和41年(1966)に完成した2代目になる。

シズ子が所属するSDGも帝国劇場を中心に活動していた。

彼女が作曲家・服部良一とはじめて出会ったのもここの楽屋。中国の戦地慰問から帰ってきた服部が東京駅のホームに降り立つと、そこで待ちかまえていた松竹関係者からいきなりSDGの副指揮者就任を要請されて、その足で帝国劇場に連れて行かれたという。

SDGも松竹少女歌劇と同様に激しいダンスをウリにしようと考えていた。それには服部が得意とするノリの良いジャズがあう。と、いうわけで……さっそくメインボーカルとなるシズ子を紹介したのだが、

「トラホーム病みのように目をショボつかせた、裏町の出前持ちのような地味な女」

服部の第一印象は最悪。だが、歌わせてみると印象はガラリと変わってくる。その唄声にインスパイアされた彼は『ラッパと娘』『センチメンタル・ダイナ』などを次々に作曲して唄わせた。

エンタメの拠点は浅草から丸の内・日比谷界隈へ

シズ子の人気を不動のものにした『ラッパと娘』は、昭和14年(1939)4月の帝国劇場での公演ではじめて披露された。彼女のスキャットとトランペットの音が、みごとにからんで観客は大熱狂。この頃から「スイングの女王」と呼ばれるようになる。

帝国劇場は映画館に転用されていたが、本格的なオペラが上演できる巨大なプレセニアム・ステージは健在だったし、もともとが劇場なだけに音の響きもいい。奔放に動きまわりながら地声を響かせ唄うシズ子には、最良の舞台だった。

東京宝塚劇場には平成12年(2000年)に建て替えられ、現在は劇場や映画館などからなる複合ビルになっている。
東京宝塚劇場には平成12年(2000年)に建て替えられ、現在は劇場や映画館などからなる複合ビルになっている。

この頃はライバルの宝塚も昭和9年(1934)に東京宝塚劇場をオープンさせている。「宝塚少女歌劇の東京本城」「述べ四千五百坪で、イス席三千百というのは東洋一」などと、当時の新聞各紙が驚きをもって報道して話題になった。

また、劇場オープンの2年前には、演劇興行と映画配給を目的とした株式会社東京宝塚劇場を設立。この会社は後に「東宝」と社名を改めて、日比谷一帯の劇場や映画館を次々に傘下に収めてゆくことになる。

松竹の牙城である浅草に新興勢力が入り込むのは難しい。そこで 東宝は新天地の日比谷・有楽町へ資本を集中投入したのである。

東京宝塚劇場には平成12年(2000年)に建て替えられ、現在は劇場や映画館などからなる複合ビルになっている。
東京宝塚劇場には平成12年(2000年)に建て替えられ、現在は劇場や映画館などからなる複合ビルになっている。

東京宝塚劇場とは道を挟んで斜向かいにあった有楽座は、明治時代から新劇上演の拠点として使われた老舗劇場だった。が、昭和10年(1935)に東宝に買収されている。その隣にあった東京大神宮の跡地にも、東宝は円形ドームの日比谷映画劇場を建設して、この一帯を興行街へと変貌させた。

また、東京宝塚劇場からは路面電車が走る晴海通りを渡った目と鼻の先、数寄屋橋の袂には昭和8年(1933)に完成した日本劇場が建っている。浅草国際劇場に匹敵する収容客数4000人を誇り、王冠を模ったアールデコ調の奇抜な外観は「陸の竜宮城」と呼ばれて話題を呼んだ。

数寄屋橋の付近道路沿いには、昔の有楽町の写真がプレートにして飾られていた。
数寄屋橋の付近道路沿いには、昔の有楽町の写真がプレートにして飾られていた。

ショービジネスの新しいメッカとなった日比谷でも、松竹と東宝は熾烈な競争を展開していた。しかし、浅草とは違ってこちらでは、新興勢力の東宝に押され気味。日本劇場や朝日新聞社屋と並んで外堀川の畔に建っていた日比谷松竹映画劇場も、この頃になると陰が薄い。また、帝国劇場もシズ子が上京した2年後には賃借権が切れて、運営権が東宝に移ってしまうことになる。

松竹には厳しい状況か?  しかし、シズ子の存在感はさらに際立ってきた。

SKDの女優というよりは〝スイングの女王〟〝ジャズ歌手〟として押しも押されぬ存在に。シズ子が唄えば大勢の客がシンクロして踊るように肩を動かす。

だが時代は女王に厳しかった……

客の乗りが良ければ、彼女の動きはいっそう激しさを増す。この時代の女性歌手には珍しい低音の地声に劇場が揺れた。聴いてる人々はみんな大満足。

だが、時代が悪かった。出る杭は打たれる。

日中戦争は長期化し、日本の国力は限界に達しつつある。軍や政府は物資や国民精神もすべて戦場に投入しようと躍起になり、国民を堕落させる娯楽を敵視していた。

戦意を高揚させる軍事歌謡が推奨され、敵性音楽であるジャズは目の敵に。ジャズ歌手の代表格であるシズ子は警視庁に何度も呼び出され、ステージの1メートル四方に引かれた白線の枠内で唄うことを強要された。

それでも唄えるうちはまだよかった。

昭和15年(1940)に内務省と文部省が合同して「音楽文化の浄化」を開始し、エンタメ業界への規制をさらに強化した。その一環として、ジャズなどの敵性音楽を唄う歌手は、東京の中枢である丸の内界隈の劇場に出演することを禁じられる。そのリストには当然、スイングの女王として名を馳せたシズ子の名前もある。

頂点を極めた……と、思ったのは束の間。急転直下、最大の危機に見舞われる。シズ子はショービジネスの中心地から追放され、ドサ回りの地方巡業で歌手をつづけた。

取材・文・撮影=青山 誠

NHK朝ドラ『ブギウギ』の主人公モデルとされる笠置シズ子。戦後初の東京のご当地ソング「東京ブギウギ」を大ヒットさせた彼女だが……イメージはコテコテの関西人。実際、四国生まれの大阪育ちである。そんな彼女と東京の、最初に縁が生まれた地が浅草だった。