嵐山に行ったら立ち寄ってみてほしい、公任ゆかりのスポット

藤原公任は、文化人としてよく知られている平安貴族だ。歌がうまくて、漢詩もよめて、さらには習字もうまかったらしい。平安貴族の漢詩文などを集めたアンソロジー集『和漢朗詠集』の選者になっているくらいだから、周囲にも一目置かれる文化人だったことは間違いない。後世にも歌がうまい人物として知られており、たとえば百人一首にも彼のこんな歌が収録されている。

 

滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ
(大納言公任)
訳:大覚寺にあった滝、その水の音はもうずっと聞こえていないけれど……それでも滝の美しさを褒める言葉は、今もずっと聞こえてきますよ。

 

この歌が有名になりすぎて、その滝跡は「なこそ(名古曽)の滝」と呼ばれるようになったくらいだ。この歌の影響力がどれほどのものだったのか、想像できるエピソードである。

嵯峨野にある大覚寺にいくと、名古曽滝跡は「大覚寺大沢池」とともに見られる。ぜひ嵐山を訪れた時に、一緒に向かってみてほしい場所だ。

大覚寺。
大覚寺。
名古曽滝跡。
名古曽滝跡。

清少納言と藤原公任の交流

そんな平安貴族きっての文化人こと藤原公任は、清少納言とも交流があったらしい。『枕草子』にこんなエピソードが収録されている。

当時の清少納言は、中宮である藤原定子に女房として仕える身。女房というのは複数人いるので、その日も女房たちは集まって過ごしていた。時期は2月(いまの3月中旬ごろ)、冬がまたやってきたのかと思うような、風が吹いて雪が降ってきたような寒い日のことだった。

そんな彼女たちのもとへ、ある手紙が届いた。

 

使いの者は「これは宰相の公任さまが、皆さまに、とのことでございます」と言う。
見ると、懐紙にこう書いてある。

  少し春ある心地こそすれ

これは和歌の下の句だ。これに合うような上の句を書いて寄越せ、と公任様はおっしゃっているのだ。

……なるほど、と私は思った。なぜなら漢詩集『白氏文集』に収録されている、白居易の律詩「南秦の雪」には、「二月山寒うして少しく春あり」というフレーズがあるからだ。

今は、二月。雪が降ってきたから山は寒そうで、春の気配はまだまだ少ない……。

「少し春ある心地こそすれ」という句は、この漢詩を踏まえているに違いない。

たしかに今日は、二月で、それなのに雪も降ってきて寒い。今日の雰囲気にぴったりな和歌だ。

でも、と私は思った。

『白氏文集』の「南秦の雪」のフレーズは、「春の気配はまだまだ少ない」という意味だ。でも、公任様が送ってきた「少し春ある心地こそすれ」は、普通に読むと「もう春めいてきたなあ」という春の気配を少しずつ感じるような意味にとれる。

ど、どっちで解釈するべきなんだろう? 

私は「これが下の句だとすると、上の句はどうつけたらいいのか」と悩んだ。

そして使いの者に「ねえ、公任様のそばに誰がいるの?」と聞くと、「●●さんです」と言われた。とても立派な方々だ。

そんな教養ある方々に見られるなんて、どう返せばいいんだ~! さくっと返せるわけがない!と頭を抱えてしまう。

もうひとりで考えるのもしんどいので、中宮定子様に相談しよう……と思ったけれど、ちょうど一条天皇がいらっしゃっているので中宮定子様はお休みになられている。

使いのものは「はやく、はやく」と急かしてくる。

ああもう、これで下手な句を返すのに、さらに返事のスピードは早いほうがいいに決まっているのに、それも遅いとなると、最悪。

「もうどうにでもなれ!」と思って、私は上の句をぶるぶる震える手で書いた。

  空寒み花にまがへて散る雪に

これならきっと、公任様が踏まえた『白氏文集』「南秦の雪」の、第三句「三時雲冷多飛雪(三時雲冷やかにして多く雪を飛ばす)」を和歌ふうにしたことが分かるでしょう。あとは、公任様が書かれた「すこし春ある」の伏線をつくらなきゃいけないから、和歌でよくある「降る雪を、散る花びらに見立てる」という手法を使って、「花びらと思うような雪が降っている」というフレーズを足したことも分かってもらえるはず。

ああ、でもどう思われただろうか……と句を返した後も、私は心配でつらかった。正直、感想は知りたいけれど、悪口を言われているなら知りたくない!

するとある時、

「俊賢の宰相さまたちが、あの和歌の下の句を読んで、『中宮様の女房にしておくだけではもったいない! やはりこいつを内侍として、帝に推薦しようか』と、お決めになっていましたよ」

と左兵衛督の中将さまに言われたのだった。

〈原文〉

「これ、公任の宰相殿の」
とてあるを、見れば、懐紙に、

  少し春ある心地こそすれ

とあるは、げに今日の気色にいとよう合ひたるも、これが本はいかでかつくべからむ、と思ひ煩ひぬ。

「たれたれか」

と問へば、

「それそれ」

と言ふ。皆いと恥づかしき中に、宰相の御答へを、いかでかことなしびに言ひ出でむ、と心ひとつに苦しきを、御前に御覧ぜさせむとすれど、上のおはしまして大殿籠りたり。主殿司は、

「とくとく」

と言ふ。げに遅うさへあらむは、いと取りどころなければ、さはれとて、

  空寒み花にまがへてちる雪に

と、わななくわななく書きてとらせて、いかに思ふらむとわびし。

これがことを聞かばやと思ふに、そしられたらば聞かじとおぼゆるを、

「俊賢の宰相など、『なほ内侍に奏してなさむ』となむ、定め給ひし」

とばかりぞ、左兵衛督の中将におはせし、語り給ひし。

(『新版 枕草子』角川文庫より引用、現代訳は筆者による意訳)

 

……これが清少納言にとっては、とてもうれしい出来事だったらしい。嬉々として『枕草子』に綴られた、良いエピソードだ。

現代語訳にも書いたが、公任の下の句は、白居易の漢詩を踏まえたものだった。しかし漢詩の「雪」の捉え方と、和歌の「雪」の捉え方は、微妙に異なる。その微妙なところを清少納言はみごとに踏まえた上の句をつくったからこそ、絶賛されたのだ。

ちなみに「内侍」とは、天皇に仕える女官。平安貴族の娘たちにとっては、かなりステータスのある役職であったことは間違いない。ちなみに『枕草子』にも、第一六九段「女は」で「女は、内侍(女性だったら、内侍になるのが一番良い!)」と書かれている。それくらい彼女にとっては憧れの役職だったはずだ。自分の和歌の出来によってそれに推薦しようというくらいだから、彼女の人生のエピソードのなかでも屈指のうれしさだったのではないだろうか……なんて私は妄想する。

 

藤原公任と清少納言。ふたりとも漢詩を丸暗記し、それでいて和歌も作れたのだ。当時の日本の文化人がどれほどレベルが高いかよくわかる話である。そのふたりのやり取りがこうして残っていることもまた、なんだか凄いことだよなあ、と私は『枕草子』を読むたびぐっときてしまう。

文=三宅香帆 写真=PIXTA

京都を歩いていると、ふと、物語の世界に入り込んだような心地になる。というのも、『源氏物語』に出てくる場面の舞台が、あるいは『紫式部日記』に登場する場所が、そこら中に存在しているからだ。京都の魅力は、歴史と現在を分け隔てないところにある。千年前の物語に描かれていた場所が、現代の散歩コースになっていたりするのだ。物語を通して眺める京都は、なんて魅力的なんだろう、とたまに惚れ惚れする。