例えばだが“遺伝子レベルで懐かしい”と、感じた瞬間がないだろうか。筆者がまず思い浮かぶのがお寺や神社を訪れた時だ。静謐(せいひつ)な雰囲気とお香の匂い……膝を折って畳に座り、手を合わせればなぜだか落ち着いてしまうだろう。
すると、心の奥底からにじみ出てくるような“懐かしさ”に包まれるのだが、よく考えてみればお寺や神社は何千年も前から存在している。せいぜい数十年しか生きていない人間が“懐かしい”という感情を抱くはずがないのだ。
それでも懐かしいという気持ちになるのは、もはや遺伝子レベルでそう感じているとしか考えられないのである。
それを踏まえた上で、今回の酒場伝説へ訪ねてみよう。
庶民の憩いの場「民生食堂」
“日本のインド”と呼ばれる高円寺に民生食堂というものがあった。民生食堂を簡単に説明すると、戦中戦後は配給チケットを使って食事ができる外食券食堂というものがあった。それが日本の復興と共になくなり、所得の少ない人でも安くて栄養のある食事を取れるよう、それらを提供する民生食堂というものに変わった。およそ80年も前の制度だ。今では民生食堂と名乗る食堂はほとんどなくなったのだが、この高円寺には数年前まで存在していたのである。
2021年の夏。まさに戦後の遺産として相応しい店構えの「民生食堂 天平」へやってきた。どこを基準に見ても水平にならない歪んだ外観。錆びて剥がれ落ちた看板や黒ずんだ壁、店先のショーケースの中にある食品サンプルは、日を浴びて原形が分からないほど溶けて固まっている。
途方もない歴史を潜らせてきた藍のれんに見とれながら、いよいよ中へ入ってみよう。
タイムスリップの店内
ガタッ、ガタガタ……と、建て付けの悪い木製の引き戸を引いて中へ入ると、そこには言葉を失ってしまう光景が広がる。こんなに色褪せるものなのか?と驚く茶色い壁と、真っ黒に沈着したコンクリートの床。綿のはみ出たイスや手書きの品札、家族らしき思い出の写真立てを、天井の蛍光灯が静かに照らしている。
タイムスリップも甚だしい……戦後すぐとは言わないが、少なくとも昭和30、40年代の空間がそのまま残っているようだ。さて、ビールくらいはあるのだろうか? もはや何があるのかさえ想像がつかないまま、テーブル席に座って尋ねた。
「あの……瓶ビールってありますか?」
「ありますよー」
良かった……とりあえず酒にはありつけた。ゆっくりとグラスに麦汁を注ぎ、ごくりと静かに飲み込む。ああ、当時の民生食堂では酒なんて出していたのだろうか、表向きではなくても裏では提供してたりして? サービスのおかきを食べながら当時を想像するのが楽しい。問題は料理だ。一体、何があるのだろうか。まさか、すいとんとサツマイモだけってことはないよな……?
とりあえず、大衆食堂のグランドメニュー「ハムエッグ」がありホッとする。焼きが強めで黄身にはコショウがたっぷりかかっている。醤油をさっと回してひと口……おっ、これはおいしい。
黄身は硬めで、そしてハムが分厚いのがうれしい。これをチビチビと酒のアテにしながら飲むのがいいのだ。
続いてやってきたのが「マグロブツ」である。食堂といったらこれを思い浮かべる飲んべえが多いだろうが、私もそのひとり。かなり奮発した大き目のカットは、よく見ればトロの割合が多い。おそらく、80年前のメニューにはなかっただろう一品をありがたくいただく。
口に入れた途端にとろけて……おいしい! 魚市場にある食堂並みの鮮度とうまみ。これだけは、豊かな時代に生まれてよかったと実感。
「お兄さんも、遠くから来たの?」
ふいに話しかけてきたマスター。“お兄さんも”という言葉から察するに、この民生食堂ファンは多いのが分かる。しばしこの店の話を伺いながら、一番人気の料理をお願いした。
こんなにアジフライしている「アジフライ」は初めてだ。しっぽの先までこんがりと揚がった衣からは、香ばしい匂いが漂う……もう、我慢できない!
カリッと耳に心地良い音を立てると、中からはふっくらジューシーなアジのうまみ。普通のとは少し違うのが、開きにして熟成されたアジを使っていること。この滋味がますます酒と合うのだ。うーむ、これは家の晩酌でも真似をしたい。
「雨、降ってきやがったなぁ」
「そうみたいですね」
突然の夕立。しばらくは止みそうにないので、やむを得ず、酒を追加する。天井からはもちろん、壁からもバチバチと雨粒が叩きつける。それからすぐに「ゴロゴロ……」と雷まで鳴り始める中、マスターは静かにテレビを観ている。その傍らでは、飼っている老猫がうにゃうにゃと寝転がっていた。
古い建物の匂いと、この何とも言えない落ち着き……ああ、これってお寺や神社の雰囲気に似ている。
それは、まさしく……
“遺伝子レベルで懐かしい”
図らずも、自分が生まれるずっと前からあるこの空間に、そう感じていたのだ。理由なんていう明確なものはない。ただただ自然と、この空間に溶け込んでいくのが分かる。
またここへ来たい……またここへ来てアジフライが食べたい。
「おっ、雨止んだよー」
そんな願いも空しく、雨上がりの店を後にしてから1年もしないうちに、跡形もなく消えてしまったのである。
酒場伝説──実はまだ、どこかで営業しているのかもしれない。それが現代でなくとも、過去や未来であってもいい。再びどこかで出合えることを願いつつ、今日も酒場へと訪れるのだ。
高円寺「天平」2021年4月29日 閉店
取材・文・撮影=味論(酒場ナビ)