人々は娯楽に飢えていた
終戦から1週間が過ぎると映画館の上映がはじまり、8月一杯の休業を申し合わせていた各劇場も9月に入ると次々に興行を再開した。昭和20年(1945)9月10日には新聞各紙が帝国劇場や東京劇場の営業再開を報じ、それを知った人々が続々と押し寄せてどこの劇場も満席の盛況だったという。
焼け野原の東京には、腹を空かせて彷徨う被災者であふれていたのだが……人々は娯楽にも飢えていたようだった。
戦時中に風船爆弾工場として使われていた日劇も、11月には施設の復旧工事を完了して再開された。その戦後初の興行となる「ハイライト・ショー」には、シズ子にも出演のオファーがあった。
スイングの女王が再び、ショービジネスの中心地に降臨する。もうジャズを唄ってお咎めをうけることはない。ステージ上のアクションを制限されることもなく、思う存分に弾けて唄うことができる。
12月に入ってからも「ハイライト・ショー」は連日の大入りだった。
当時はまだ銀座と有楽町を分つ境界には外堀川が流れていた。銀座方面から数寄屋橋を渡り有楽町に入ると、日劇の前には黒山の人だかり。劇場前にはショー出演者の名を書き連ねた看板が掲げられ、皆がそれを興味深げに眺めている。その群衆のなかに、服部良一の姿があった。
上海で終戦を迎えた服部は、この日に夜行列車で東京に着いた。焼け野原に変貌した街に驚き、浦島太郎の気分で呆然としながら歩いていたのだが、
「笠置君も頑張っているんだなぁ」
スイングの女王の復活、大衆娯楽の復活。自分も負けてはいられない。と、懐かしい名前を目にして正気に戻ったようだ。
『東京ブギウギ』(1947年)誕生
シズ子は吉本興業の御曹司・吉本穎介と戦時下で結ばれ、恋愛のほうも絶好調。この翌年に穎介が大阪に帰ってからも、遠距離恋愛はつづく。やがて穎介の子を妊娠。昭和22年(1947)1月『ジャズ・カルメン』で日劇の舞台に立った時には、妊娠6ヶ月の腹が目立つようになっていた。「カルメン妊娠す」なんて記事が新聞でも報じられている。
シズ子はこの舞台を最後に引退して結婚する決意をしていた。が、穎介は結核を患って同年5月に亡くなってしまう。
穎介が亡くなった翌月、出産を終えたシズ子が久しぶりに服部を訪ねて来た。どうやって慰めればいいのだろうかと、服部も言葉がみつからない……するとシズ子のほうから、
「センセ、よろしゅう頼んまっせ!」
元気な声で新曲の制作をせがんできた。子供のために金を稼がねばならない。いつまで泣いてはいられないというポジティヴ思考、その気持ちがあれば大丈夫。「イケる!」と、服部も確信した。
かなり以前から服部は、シズ子にブギー調の歌を唄わせてみようという考えがあった。
ブギは1920年代にアメリカで流行ったピアノ奏法で、ダンスパーティーなどでよく用いられた。エイトビートのリズムは日本人の感覚だと忙しなくて、当時は大半の歌手が歌い辛いと感じるだろう。が、シズ子にはこれがハマりそうだと、服部は確信している。その考えを実行に移す時がきた。
昭和22年(1947)9月10日、内幸町にあるレコード会社の録音スタジオで『東京ブギウギ』のレコーディングがおこなわれた。
録音スタジオから近い東京駅では、焼け落ちた駅舎の屋根をやっと復旧工事を終えた頃。空襲で破壊された建物は、瓦礫の撤去や改修工事が進んで街の風景も少し落ち着いてきた。終戦直後の大混乱は収束しつつあるのだが、戦勝国の軍隊に占領統治される状況に変わりはない。付近には進駐軍の娯楽施設があり、スタジオ前の通りには大勢の米兵が我が物顔で闊歩していた。
レコーディングがおこなわれているという話を聞きつけた米兵たちの一団が、これを見物しようと録音スタジオに押しかける。敗戦国の者たちは逆らうことができず、彼らの乱入を許してしまうが……結果的にはそれが良かった。
曲の前奏が始まると、兵士たちは聞き慣れたブギーのリズムにすぐ反応して、楽しそうに体を揺らす。それを見てシズ子も乗ってくる。兵士たちと一緒にスイングしながら、声を張りあげて唄った。こうして完成したレコードが翌年1月に発売されると、たちまち27枚を売りあげる驚異的なヒットを記録する。
高架下の街娼たちの熱烈な声援
焼け野原のバラックやごちゃついた闇市の路地、とこでも『東京ブギウギ』が聴こえるようになる。
有楽町前の鉄道高架下に屯する街娼たちには、とくにシズ子の熱烈なファンが多かった。前年までの彼女たちは自分の不幸な身の上を恨むように『星の流れに』を口ずさみ、その物悲しい唄声が高架下に響いていたものだったが。それが、いつしか陽気なブギーに変わっている。
この高架下は連合軍総司令部のある第一生命ビルと銀座を結ぶルート上にある。仕事を終えて銀座に繰りだす米兵を、ここで待ちかまえて誘う。そんな光景が終戦直後にはよく見られた。
第一生命ビルの隣にある帝国劇場にも近い。また、反対側の路地を抜ければ日劇がある。いずれもシズ子の公演がよくおこなわれていた場所。彼女が出演する時には、高架下の娼婦たちがこぞって劇場に押しかけ最前席に陣取って声援を送ったという。
この後もシズ子は『ジャングル・ブギー』や『買物ブギー』など大ヒットがつづく。
スイングの女王からブギーの女王へと、華麗なる転身を遂げてショービジネスの中心地に帰ってきた。
その唄声が、占領下の日本中に響き渡っていた。
取材・文・撮影=青山 誠