駅の外から流れてきたのであろう、ひんやりとした外気が首筋に触れた。上着なしだとやっぱり寒いかもしれない。人の少ない端の方に寄って、腕にかけっぱなしにしていたダウンを羽織った。
浜野くんの言葉をまた思い出す。寒さの質が札幌と違うのかどうか、わたしにはわからなかった。でも、空気の匂いが違う、気がした。雪と氷に閉ざされた世界からやってきたのだから、違っていても不思議はないだろう。なんのにおいなのだろう。植物のにおいか。ほこりや、人々の肌のにおいか。念のため見回したが、浜野くんはもちろんいなかった。
ところどころ迷いそうになりながら、無事に山手線までたどり着く。渋谷方面、と確実にチェックして、電車を待った。ホームの反対側に停まった電車から降りてきた人たちが、一番後ろに並んでいたわたしの背を押しのけていったので、一歩前に出た。人が多い。すぐ誰かにぶつかりそうになる。時間的に、まだ帰宅ラッシュではないはずだけれど。いや、東京に住んでいたころだったら、このくらい、人が多いとは感じなかったかもしれない。毎日ぎゅうぎゅうに押しつぶされながら会社へ向かっていた。それが当たり前ではないと知ってしまったから、いまはもう耐えられる気がしない。
こちら側にも電車が来た。また魚になったつもりで前の人と歩幅を合わせ、電車に乗りこむ。ホームの屋根と電車の隙間から、雨粒がぽたりぽたりと首筋に落ちた。雨が降っていたのか、と思い、それからリュックに折りたたみ傘を入れてこなかったことに気がつく。
ドアは閉まり、電車は動き出す。少しの違和感の正体を探して、そうか、この街は冬でも雨が降るのだ、と思い至った。札幌ではこの季節、空から降ってくるものはすべて雪になってしまう。外では服に触れても溶けないので、屋内へ入る前に払い落とせばそれで済むから、傘もあまりいらない。代わりにみんな、帽子やフードを目深にかぶっている。
会の人たちが行きつけにしているという小さな居酒屋を貸し切って行われた授賞式で、わたしはいつもより饒舌になり、ふだん言わないような変な冗談までいくつか飛ばしてしまった。SNSで何年もやりとりしていたひと達とは、初めて会ったにもかかわらず少し話しただけですっかり昔からの友達のように話すことができた。顔を見たときはネットと印象が違うな、と少し思っても、しゃべり出すとああ、たしかにあの人だ、と納得する。ネットと現実の壁は、わたしが思っていたより薄かったようだ。
集まった人たちは、大学生くらいからわたしより一回り上くらいまで、年代も性別もさまざまだった。楽しかったけれど、ただの趣味のつもりのわたしよりも、みんなもっと真剣に短歌のことを考えていて、話が白熱してくるとちょっと小さくなってしまう。ついていけない話も多くて、わかってはいたけれどまったく勉強が足りないのだと思い知らされる。でも、わたしのはただの趣味だし、とまた心で言い訳しながら聞いていた話に、歌人、という言葉が何度か出てきた。そのなかにどうやらわたしも含まれているようだ、と気づいて、頬が熱くなった。
終盤、苦手なスピーチを求められたときはかなり緊張したけれど、つっかえてもどもっても優しく見守ってくれる人たちばかりだ、とわかっていたらいつもよりうまく話すことができた。職場で電話の取り次ぎひとつにいつまでも手こずっている自分とは思えなかった。
気分が高揚していて、ふだんなら行かない二次会にまでついて行ってしまった。中華系のお店ばっかり入ってるビルがあるんですよ、と池袋に詳しいらしい男性に店まで案内される。ビルの二階に構えられた中華料理屋は、簡素な内装だけれど大きなキッチンがいくつも客席から見え、店内は中国語らしき言葉が飛び交っていた。注文はアプリでするようだ。街の中華屋にはないような本格的なメニューが並んでいる。馴染みのない漢字の羅列をみんなであれこれ推測しながら注文した。どれも食べたことのない香辛料の味がしたけれど、とてもおいしかった。
隣に座った大学生くらいの男の子に、広末さんは歌集、出さないんですか、と訊かれ、えっと声が出る。相手は意外そうに、だって結構長くやっているでしょう、作品も溜まっているんじゃないですか、となんでもないことのように言った。
自分がそんなことをやってもいいなんて、思ってもみなかった。歌集の多くは自費出版だという事情も聞いたことがあった。そんなお金はない。素直にそう言ってみると、彼は私家版を作って即売会などで売っているという。それならコストはそこまでかからないようだ。
へえ、と曖昧な返事を繰り返してしまう。そういえば、そんなようなことをやっている人をSNSで見たことがある。それと自分が全く繋がっていなかったのだ。あくまで趣味。いつも自分に言い聞かせていた言葉だ。小さな、単純な、たいしたことのないもの。たまに褒めてもらえるのは嬉しいけれど、あくまでネット上でできた内輪のコミュニティのなかの評価だ。選ばれなくて当たり前。そう思っていたのに、急に世界を広げられて、どうしていいかわからなくなった。
戸惑っているうちに、話題は違う方向へ行ってしまっていた。だんだんみんな酔っぱらってきて、真偽不明のゴシップや職場の愚痴なんかも飛び交うようになり、間もなく会はお開きになった。駅へ向かうほかの人たちに、楽しかったですと頭を下げ、ひとりスマホでマップを確かめながらホテルへ向かった。
わたしも少し飲んでいたからか、足元がふわふわしていた。もらった賞状や感想がじんわりと心を温めていたけれど、それ以上に、歌集、という言葉が引っかかっていた。やりたいのだろうか。わたしなんかが。わたしがやりたいと望めば、やっていい。そのことがうまくのみこめない。見えない誰かが、やってはいけないとわたしを叱責する。
ホテルへ着くまでにだいぶ迷った。しばらく歩いてから駅のなかを通ったほうが早いことに気がついて、こんなことならみんなについていけばよかったと引き返したが、入り組んだ地下街でまた迷って、やっと地上に出ることができた。
チェックインを済ませ、小さなビジネスホテルの、煙草のにおいの染みついた部屋のベッドに寝そべってうーんと伸びをする。池袋か、と改めて思う。何年ぶりに来ただろう。結婚する前、浜野くんとデートしに来たことがある。水族館へ行って、展望台で夜景を見て。若かったなあ、とため息をつく。
こんな風にひとりきりで遠出をしてホテルに泊まるなんて、離婚直後は考えもしなかった。自分ひとりではなにもできない人間だと、いつの間にか思いこんでいた。ひとりで暮らすようになって、やりたいことに少しずつ手を伸ばして、やっと、できることが増えてきた。
スマホをチェックすると、妹から明日はいつ帰ってくるのかと訊かれていた。電車を調べて、だいたいの到着時間を伝える。
あの子はえらい、と思う。父が死んだとき、わたしは短大にあがったばかりで、妹は中学生だった。病気が発覚してから、あっという間だった。妹は泣きじゃくっていたが、わたしは母を押さえつけていた父がやっといなくなったという気持ちが強くて、父の死を悲しむことができるようになったのは、それから何年も経ったあとだった。
それなのに、父がいなくなってからの母は、ますます保守的になって、ひとりではなにもできないと毎日嘆き、わたしたち姉妹には理不尽をぶつけた。まるで父が半分母に乗り移ってしまったかのようだ、と思ったこともある。母と何度もぶつかるのに疲れて、仕事が決まるとすぐに家を出た。妹を母のもとに置いていくのは心苦しかった。でも、どうしようもなかった。
妹は、あのころから今までずっと、母とわたしどちらの肩も持たず、適度に間を取り持ってくれている。彼女がいなかったら、とっくに縁が切れていたと思う。板挟みになって、きっと大変だっただろう。妹とのメッセージを遡(さかのぼ)っていると、お母さん、最近足腰弱くなっちゃったみたいで、の文字を発見する。
そう、あのころの母はもういないのだ。最後に会ったのはわたしが北海道に来る直前、十年前の妹の結婚式だ。あのときでさえ、母を見てずいぶん年をとったと内心で驚いた。なにか声をかけただろうか。わだかまりもあったし、バタバタしていて、ろくに話さなかったように思う。今はますます弱っているのか。
備え付けのユニットバスでシャワーを浴びた。自分から、急ごしらえでかぶった「歌人」のはりぼてがぼろぼろと剥がれ落ちて、ただの自分に戻っていく。眠るのがへたくそで、職場では仕事を押し付けられてばかりで、うまくしゃべれない、そのくせ頑固な、ただの自分に。
文=貝塚円花
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。