歩いたせいか、また少し汗ばんできた。ダウンを脱ごうか迷って袖口のところを見ると、小さな羽虫の死骸がくっついていた。雪虫だ。札幌では毎年、雪が降る前あたりに見かけるようになる虫だけれど、今年は猛暑のせいで秋に大発生した。数匹程度を遠くから見るぶんには白くふわふわと漂うのが名前の通り雪のようで風情もあるが、白い部分は粘着性があって服にはりつくので、大量発生していたときはなるべく外出をひかえるほどだった。きっとあのころついたまま、今まで気がつかなかったのだろう。

何食わぬ顔で払い落とす。わたしと同じ電車を待つ人々は、こんなところに北国の虫が落ちているなんて夢にも思わないだろう。北国から来た女がいることも。

いや、どうだろう。案外、隣にいる彼や、後ろに並んでいる彼女も、昨日、札幌から来たばかりかもしれない。いつも職場に行くときに通る地下道で、すれ違ったことがあるのかもしれない。

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電車はすぐにやってきた。新宿で、前に座っていたスーツ姿の女性が慌てた様子で降りて行って、席があく。乗り過ごしたのだろうか。出社するところか、それとも、取引先へ向かうのだろうか。着席すると、昨日の疲れがまだ残っていたのか、うとうとしてしまう。年老いた母の姿が夢に出てきて、はっとする。

渋谷でまたたくさんの人が降りていき、たくさんの人が乗ってくる。ドアのあたりで何かしゃべっているカップルの、男の子の方が林さんに似ていて一瞬どきっとするが、あれは大学生くらいの年だろう。女の子は、なにか楽器を背負っている。どこかへ演奏しにいくのだろうか。カップルではないのかもしれない。前にサラリーマン風の男性が立ち、ふたりの姿は見えなくなる。

また目を閉じる。これから会う、母のことを考える。妹のことも。それから父。幼いころ、家族で電車に乗って、東京まで出かけた。周りに迷惑をかけないように、ちょっとはしゃぎそうになると叱られて、でもやっぱりはしゃいでしまった。

さっきまで感じていた眠気はどこかへ行って、ぼうっと車内を見ていた。暖房の熱にさすがに暑くなって、やっぱりダウンを脱ぎ、リュックとともに抱える。

人はきっと、わたしを非難するだろう。結婚に失敗し、老いた母を妹に任せきりで、非正規の職にしか就けず、そのくせ金にならない趣味にうつつを抜かしているわたしのことを。でも、これしかできなかったのだ。これがわたしの精一杯だったのだ。こうするしか、なかったのだ。

心の中で、そう叫ぶ。だれかに言い訳している。けれど、非難する人とは誰だろう。いったい誰が、わたしのことを責めるのだろう。浜野くんか。父か。母か。でも、みんなもう、わたしのそばにはいない。

顔を上げると、前に立つ男性がスマホを見ているのが目に入った。スーツを着ている。これから営業先に行くのだろうか。つり革をつかむ左手に、指輪がにぶく光っている。家庭があるのだろう。頭の中に、ふっとイメージがわく。かつての浜野くんのように、妻に離婚をほのめかされているのかもしれない。相性の悪い上司に疲れ切っているのかもしれない。思わず視線をそらす。人々の顔が、次々と目に入る。名前も知らない、誰かたち。どこから来て、どこへ行くのか、決して知ることはない人たち。

例えば、ドアにもたれて車窓を眺めている女性。大きな荷物を抱えている。旅行の途中だろうか。それとも、母親の墓参りに行くのだろうか。

例えば、隣の、本を読み、ヘッドホンをはめている若者。大学へ向かう途中だろうか。それとも、夢破れて、もうすぐ故郷へ帰る算段をたてているのか。

同じ車両に乗り合わせたひとりひとりの人生の息づかいが聞こえてくる。膨大なイメージに押しつぶされそうになって、わたしは頭を振った。やめよう、勝手な妄想をするのは。少し下品だったかもしれない。

横浜で乗ってきたおばあさんに席を譲って立ち上がった。ドアのあたりまで移動して、車窓の外を眺める。神奈川に入ってから、実家で過ごしていた日々が次々とよみがえってきた。台風で休みになった日に妹とクッキーを焼いたこと。両親の喧嘩を聞きながら勉強していたこと。家族で江ノ島に出かけたこと。浜野くんを連れて、結婚のあいさつに行ったこと。

わたしを許さないのは、わたしを縛っているのは、本当は誰よりもわたし自身なのだ。わかっている。そろそろ許してくれよ、と自分に語りかける。返事はない。いいよ、と自分で返してみる。胸が、ぽっと熱くなる。

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電車は街から街へ移っていく。少し目をつむって、うまれたばかりの姪の姿を思い浮かべた。妹がちいさかったころのことを思い出す。きっと彼女に似ているのだろう。たぶん、わたしにも少しだけ。若き日の父、母、わたしの指をつかんで離さない、小さな、力強いてのひら。誰にも、何にも縛られることなく、あなたの人生が開かれていきますように。

目を開ける。車窓の向こうで、街が遠ざかっていく。電車はきしみ、音を立て、次の街へ向かう。瞳に映った景色は、風のなかへと消えた。

〈了〉

文=貝塚円花
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。