アパートは札幌にいたとき家賃との兼ね合いで適当に決めてしまったが、それもまずかった。最寄り駅は日本で有数の混雑率を誇る路線で、通勤電車は寿司詰め状態。毎朝心を殺して乗りこんで、職場に着くころにはすでにくたくただ。学生時代はラッシュ時に電車に乗ることなんてほとんどなかったから、完全に舐めていた。
休日は平日の疲れから昼間までベッドから起き上がれない生活が続いている。そうなるとも知らず持ってきてしまったギターが部屋の片隅に立てかけられているのが虚しい。自分で弾くどころか、音楽を聴く余裕さえない。
毎日頭が働いていないのが如実に分かる。こんなのは自分じゃない、やばい、と思うことも多かった。何度か休職も本気で考えたが、この生活が一年の期限つきであることがどうにか救いになって思いとどまっている。いや、思いとどまっていることがいいことなのかさえ分からない。戻った先でどっと疲れが出てしまって結局休むことになるとか、いろいろ悪い予感もぐるぐる頭を回ったが、ひとまず歯を食いしばって、この生活が終わるのを指折り数えている日々だ。あと少し、あと少し。
高田馬場は予想していたより人でにぎわっていて、感染症の流行が落ち着いてきた、というか、諦めるしかなくなった世の中になったことを実感した。
林さんが東京にいるうちに集まりましょう、と呼びかけてくれた後輩がいて、重い体を引きずって家から出てきた。平日は仕事が終わるか分からないから土曜日にしてくれと頼んだのはぼくだが。出かける直前まで眠っていたのでまだ体がだるい。ここへ来るのは卒業以来だ。せっかく東京にいるのだから、本当はもっと早く大学時代の思い出の詰まったこの場所へ訪れたかったのだが、休日は体力回復に努めるのが精一杯で、いままで来られなかった。
九月の夕方だというのにまだまだ汗が顔を伝う。よりによってこんな猛暑の年に札幌を離れなければならなかったなんて、ついてない。いや、今年は北海道も記録的な暑さだったとニュースでやっていた。実家のぼくの部屋にはクーラーがないから、向こうにいてもそれはそれで大変だったかもしれない。
改札を出てロータリーへ向かうと、あの派手な学生ローンの看板がなくなって寒々しいコンクリートが露出している。なくなったとは聞いていたけれど、こんなふうになっていたのか。あんな治安の悪そうな看板、ない方がいいに決まっているだろうと思っていたが、慣れ親しんだ景観がなくなるとやはりさみしい気がする。
後輩の米沢さんが予約してくれた居酒屋は、早稲田通りのなかほどから裏路地へ抜けたところにあるようだった。ロータリーにたむろする学生らしき若者を横目にまた横断歩道を渡る。後ろからスーツ姿の男がぼくを早足に追い越していった。学生のころは学生だらけの街だと思っていたけれど、このあたりにはオフィスも多い。人間というのは不思議なもので、社会人になったいまは同世代のサラリーマンのほうが目についた。
立ち並ぶ店は、予想通り卒業のときからずいぶん変わっていた。変わっていること自体が、変わっていないともいえる。学生のころからいつ来てもどこかしらの店が入れ替わっている場所だった。新しい店を見つけるたび、以前にはどんな店だったのか考えるのだが、なぜかどうしても思い出せないのだった。
それにしても、以前と比べてずいぶんアジア系の店が増えた気がする。中華料理は言わずもがな、本格的なスパイスを使ったカレー屋、韓国料理、インド料理、タイ料理、ベトナム料理。なんだかそういうのがはやっているらしい、というのは札幌でもコンビニのフェアでアジア料理がしょっちゅう特集されるので感じてはいたが、東京ではこんなことになっていたのか、と戻ってきてすぐは驚いた。慣れ親しんだ街が変わっているのを目の当たりにすると、実感もひとしおだ。
店員に案内された席には先に柳本が座っていた。タッチパネルでメニューを眺めていたらしい彼は、ぼくの顔を認めると、よう、と片手をあげた。実は彼とも東京に来てから直接会うのは初めてだ。メッセージのやりとりはときどきしていたが、コロナ禍にリモート飲みで揉めてから気まずくて、あまり顔を合わせる気になれなかった。米沢さんがこの会をセッティングしてくれなければ会わないままだったかもしれない。たぶん向こうも同じだろう。ぼくは努めて明るい声で、久しぶり、と柳本の肩を叩いた。
学生らしき客もちらほら見かけたが、個室なのでうるさくはならないだろう。かつてあちら側だったはずなのに、そんなことを気にしている自分がおかしい。すぐに米沢さんも来た。彼女とは卒業以来だ。米沢さん、と呼びかけるとなんですかそのよそよそしい呼び方、と笑われる。そういえば学生時代はフレンドリーな先輩でありたくて、下の名前で呼んでいたんだっけ。ちょっと違和感をおぼえつつ、紗凪ちゃん、と呼び直した。
彼女は先月、釧路へ旅行していたらしい。ぼくは修学旅行で釧路に行ったことはあるが、それくらいだ。海の匂いがする街だったことを覚えている。
「林さんは北海道の人だから渡すか迷ったんですけど」
と手渡されたのは、釧路で有名な夕日を模したブッセだった。知らないお菓子だ。お礼を言いつつ、札幌と釧路は東京と名古屋くらい離れていて……とつい説明してしまった。
今回は単に懐かしいメンツで集まろう、というだけではなくて、ちょっとした議題もある。米沢さんと同学年だった藤崎さんと大和田くんの結婚式についてだ。ぼくはかつて、新入生だったこの後輩たちの組んだバンドにサポートのドラムとして入ったことがある。あのころのあどけない顔つきを思い出すと、いかにも仕事ができそうなぱりっとしたファッションに身を包んだ米沢さんを見て、親心のようなじじくさい気持ちを覚えた。
メッセージでいろいろやりとりするうち、せっかくバンドサークルのメンツが集まるのだから、余興で一曲演奏しようじゃないかという話になったのだ。
「ていうか林さん、去年の10月からこっちにいたんですか。じゃ、もう一年経つじゃないですか」
「そうそう。だから、もうすぐ札幌に戻るよ。ちょうど大和田たちの結婚式が終わったあたりくらいかな。一年の出向だからね」
「あぶなかったー。ほんと、そういうとこなんですから」
明るく屈託なく話題を提供し続けてくれる米沢さんのおかげで、ぼくと柳本の間に漂っていた遠慮がちな雰囲気もすぐに気にならなくなった。
「そういえば、安田先輩はずっと福岡なんでしたっけ」
「それなあ」
柳本が言いよどむ。ぼくと柳本と共にサークルの幹部をやっていた安田の名がこの場で出るのは自然なことだった。この様子だと、柳本も安田の事情は知っているらしい。ふたりの仲も回復していたのか、と少しほっとする。
「あいつ、いま仕事を休んでるらしいんだよ。もしかしたら近々戻ってくるかもな」
「えー? あんなタフな人が休むなんてよっぽどですね」
米沢さんが知っている安田の姿は、幹事長として厳しくサークルをとりまとめる「怖い先輩」の姿だろう。だけど同級生として見ていると、まとめ役になったのだからと肩肘を張りすぎている感じだった。そういう真面目さを仕事でも発揮しすぎて、自分の限界以上にがんばってしまったのかもしれない。
「そっかあ、なんか意外です。林さんならともかく」
「おい」
「林はぜんぶのらりくらりかわすから結局病まないタイプだろ」
「たしかに!」
「おいおい」
笑顔で交わしつつ、ちょっと胸のあたりがキリキリする。もともと話すつもりはなかったけど、仕事で悩んでいて、とこの場で真面目に言い出すのは難しいかもしれない。
「なんか、世代の問題なんですかね? 周りで病む人多くないですか? お父さんにも、最近の若手はすぐ休むとかぼやかれたことあります」
「俺はまあ、フリーランスだし自分で仕事量調節できるからなあ。個人的には、無理して取り返しがつかなくなる前に休めたほうがいいじゃんって思うけど。ふたりは大丈夫?」
ぼくは内心の動揺を隠しつつ、なるべく軽い感じで頷く。米沢さんはため息を漏らした。
「私は大丈夫なんですけど、彼氏が病んじゃって。いろいろ相談乗ったりもしたんですけど、結局こっちまで引きずられそうになって、先月別れちゃいました」
「ゼミの人だっけ?」
「そうです。まあ、社会人になってから話も合わなくなってきて、潮時といえば潮時だったんですけどねえ」
米沢さんはぐっとグラスを煽り、はあっと深いため息をついた。
「会社はおじさんだらけだし、知り合いはみんな彼女持ちだし、アプリとか登録するくらいならしばらく恋愛はもういっかなー、仕事楽しいし、でも結婚考えるとなーみたいな。悩んでます」
「まあ、別れたばっかりなんでしょ。落ち着くまではねえ」
「お二人は?」
それがさあ、と柳本が突然大きな声を出したのでぼくは驚く。酔っ払ってきたのかもしれない。彼が自分の恋愛について何か話すのはあまり聞いたことがなかったから、よっぽど話したかったんだろう。
「一緒に暮らしてる彼女がいたんだけど、彼女もフリーランスでさ、夫婦別姓が認められるまで籍は入れないで事実婚のかたちにしておこうって話してたわけ」
「過去形ですね」
「うん、まあ別れたよね。先月」
以前揉めたときのやりとりが急に腑に落ちる。なんで突然あんなことを言い出したのかと思っていたけれど、そういうことだったのか。
「なんだ、傷心仲間じゃないですか」
「林は? お前から恋愛の話ってほとんど聞かないな。大学四年のときの彼女とは別れたんだっけ?」
「うーん、あれも彼女っていうか……。まあとりあえず今は彼女いないし、欲しくもないかな。特に今なんか、来月には札幌に帰るし」
「札幌にいい人いないんですか?」
「去年、中学の同級生から連絡がきて二、三回会ったりしたけど……。なんか違うって思われたらしくて、それ以来ないな」
「なんか違うってなんですか」
「連絡途絶えたなと思ったら、別の同級生から伝言されたんだよ」
「うわあー」
話が盛り上がっている間にも、米沢さんは追加の注文やら何やらを適切なタイミングでやってくれる。きっと職場でも重宝されているんだろうな、と胸がちりちりした。
文=貝塚円花
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。