「明日、もう帰っちゃうのかい」

「もっといればよかった」

「もっといてよ」

「また来ます」

「うん、来てね」

事前に調べてきた釧路の観光スポットで、夕日が綺麗に見えるところがあると知ったから行ってみたいと切り出すと、ああ、弊舞橋の方だね、じゃあついでに夜は泉屋に行ってきたらいい、とおばあちゃんが言う。

「スパカツっていうのが有名なんだわ」

「鉄板焼きのスパゲッティにカツが載ってるんだよ」

「おいしいものたくさん食べて帰りなさい」

口々に言われて頷く。せっかくだから、という言葉に甘えてしまう。

夕方までは家の中でごろごろ過ごした。まだ誰こいつ、という目をしているコロにおやつをあげて、背中を撫でてみる。次に来たときも覚えていてくれるだろうか。また少しうとうとしてしまって、紗凪ちゃんそろそろ行くよ、の声にはっと起き上がった。おじいちゃんとおばあちゃんは行かないらしい。つい頼りにしてしまっていたけれど、もうお年寄りなのだ。若い人たちで行っておいで、と送り出された。

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駅から大通りをまっすぐに行くと釧路川に行き当たる。そこに掛っているのが幣舞橋だった。周辺は飲み屋街になっていて、古くからありそうなお店がたくさん建ち並んでいる。あとで行く泉屋も飲み屋街のビルのなかにあるという。

弊舞橋はこの街のシンボル的な橋だけあって、立派な作りをしていた。欄干の各所に銅像まで建てられている。夕日を見に来たのであろう人たちが、早くも集まっていた。傾きはじめている太陽は、たしかにずいぶん色が濃く、輪郭がくっきりと見える。湿度が高いからだろうか。陽は海へ向けて、じわり、じわりと落ちていった。係留されている船がオレンジ色のひかりに包まれていく。

やがて太陽はすっかり水平線の下に飲み込まれた。余韻でじんわりとピンク色に染まった空が、夜の帳と混ざり合う。その場を後にするのが、なんだかいつまでも名残惜しかった。

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泉屋は地元の人も観光客もよくくる人気店らしく、入り口前の階段で少し並んで待った。小さなシャンデリアのような照明に、アーチ窓。レトロでかわいい雰囲気だ。

スパカツが運ばれてくる。鉄板に乗せられたミートソースパスタの上にカツが乗っかっている。カツもそうだけど、そもそもスパゲッティがとんでもない量だ。伯父さんと伯母さんは食べきれないからと定食を注文していた。ふたりにも少し分けて、それでもおなかがはち切れそうだったが、根性で食べきった。

「そういえば、湿原は見に行かないの?」

「気になってるんだけど、街から離れてるみたいだし、今回は見送りかなと思ってます」

「明日は飛行機、何時?」

「夕方です」

「そしたら、送ってあげるから帰る前に見て行ったらいいしょ。せっかくなんだから」

「いいんですか?」

「もちろん!」

さっそく道順を調べはじめた伯母さんに合せて静かにアドバイスを挟む伯父さんを見て、端からみた私と裕斗もこんな感じなのかも、とふと思う。もちろん、伯父さんの方が裕斗よりずっと頼りになりそうな感じだけど……。でも、私が慌てたり感情が高ぶったりしやすいのを、裕斗はいつも落ち着いて見守ってくれている。

夫婦、というものが身近にあまりいなかったから、婚後の生活や関係性について、実はイメージがわいていなかったのかもしれない。私たちは、二十年後、三十年後まで、支え合える関係になれるだろうか。

裕斗の話し方は下手くそだけど、勝手に相手の気持ちを決めつけて、言い分を聞こうとしていなかったのは、私の方かもしれなかった。帰ったらもう一度よく話し合おう。裕斗が自分の気持ちを語るのを、ちゃんと待ってみよう。

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寝る前、やっと裕斗に返事を送った。釧路どう、というメッセージに、夕日の写真を送る。めっちゃ涼しいよ、と添えると、いいな、こっちやばいよ三十八度、と返ってくる。裕斗の住んでいる社員寮は埼玉にあって関東の中でもとりわけ暑いとはいえ、気温差が十度以上もある。帰ったら体調を崩しそうだなと思いながら、次々と写真を送った。いつか一緒に行けたらいいね、の文字に、肯定のスタンプを押した。

本当に忙しい一日だった。スマホを置いて、何度か寝返りを打ってから、お母さん、と小さく口に出して言ってみると、閉じたまぶたに涙がにじみかけた。ここまできたなら泣かない自分でいたかった。そう思うのに、胸はぎゅっと締め付けられていて、結局、抑えきれなかった一筋が頬を伝って枕に落ちた。

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次の日、おばあちゃんが作ってくれたお昼を食べて、家を出た。お昼はラーメンだった。てっきりインスタント麺かなにかかと思っていたら、本格的な醤油ラーメンが出てきてびっくりする。野菜でだしをとっているらしい。添えられたお麩に甘みのあるスープが染みていて、気づけば無言で食べ進めていた。

また来てね、と何度も言われ、そのたびにまた来ます、と返した。おじいちゃんとおばあちゃんと、それからコロも見送りに出てきてくれていた。伯母夫婦の車に乗り込む。運転席に座る伯父はさっそく昨日調べていたルートをカーナビに入れていた。湿原展望台までは車で二十五分ほどのようだった。街を離れて道が原野にさしかかると、また鶴がいないかつい探してしまう。滞在中はじめて霧があまりない日で、遠くまで見渡せた。鶴はあらわれなかったが、鹿が草を食んでいるのが小さく見えた。

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レンガ造りの丸っこい展望台の中には湿原に関するいろいろな資料が展示されていた。屋上からも湿原が見渡せたが、一時間ほどで回れる遊歩道のなかにも展望台があるようだった。そっちの方がすごい景色だよ、と伯母は言った。

「どうする? 時間はあるけど、疲れてない?」

「行きます。せっかくなので」

ここまで送ってもらったのだから、行くしかない。伯父も遊歩道を歩くのは初めてだという。草木の生い茂る中に、木の板で組まれた道が浮いていた。夏にしては気温が低めとはいえ、さすがに日差しの中を動くと暑くなってきた。吹いてくる風は涼しくて気持ちがいい。

「ここってもう湿原なんですよね」

「そう。ほんとに広いのよ。展望台、きっとびっくりするよ」

後ろから子供が走ってきて私たちを追い越していった。若い夫婦がそれを慌てて追いかけていく。子供からすると、ちょっとしたアスレチック感覚で楽しいのかもしれない。

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サテライト展望台、の案内板からしばらく歩いたところで、階段が見えてきた。ふうふう言いながら登り切ると、見渡す限りの視界が開けていて、思わず息を呑む。湿原は視界に収まり切らないほどに広がっていた。遙か彼方に山稜らしきものが見えるが、その手前はすべて湿原だ。

「あっちが駅の方かい」

「そう、うちの方ね」

ふたりが話している間も、見入ってしまう。

「私も実は子供のころぶりかも。姉妹でお父さんに連れてきてもらってね」

そう言って伯母はうんと伸びをした。爽やかな風が汗ばんだ肌を冷やしていく。私が伯母の顔を見ると、少し逡巡したような間のち、伯母はぽつりと言った。

「ひかりはね、ちょっと難しく考え過ぎちゃう子だった」

私は次の言葉を待った。少し間があいた。

「お葬式のあと、うちで育つより、米さんのそばの方が紗凪ちゃんにはいいだろうってことになって。それでお父さん、怒っちゃってね。ずっと、どうしてるかなって思ってた。みんな、ずっと思ってたよ」

私が頷くと、伯母は笑った。

「こうやって紗凪ちゃんとまた会えて、本当によかった」

少し離れたところで、伯父が湿原を眺めていた。私は、自分で思っていたより、ずっとたくさんの人に支えられて、愛されて、ここに立っているのだった。

「私も、会えてよかったです」

たくさんお土産を買って帰らなくちゃ、と思った。みんなにたくさん話をするのだ。この街に来てよかった、そして、あなたにそれを伝えられてよかった、と。

文=貝塚円花
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。