一軒目でもそれなりに飲んでいたし、後輩がいなくなってプライドを取り繕う必要がなくなったのもあり、ぼくたちは大いになさけなく愚痴を言い合った。柳本は別れた彼女への未練を垂れ流し、ぼくは仕事と上司へひたすら呪詛を吐いた。当たり前のように終電を逃してしまったので、学生時代から住み続けているという柳本のアパートに泊めてもらうことになった。

高田馬場駅のすぐそばにある柳本の家は、学生のころ溜まり場みたいになっていて、常にサークルの誰かがいたのを覚えている。当然ぼくもしょっちゅう入り浸っていた。

先月まで彼女と同棲していたというが、その痕跡はもはやほとんどなく、けれど学生のときとは家具や物の配置は変わっている。あのころはなかった大きなソファを寝床に貸してもらい、気絶するように眠ってしまった。

他人の家なのに起きたのは昼過ぎだった。一瞬どこにいるのか分からず、混乱しながら起き上がると、柳本はとっくに目覚めていたようで、パソコンの前に座って仕事をこなしていた。日曜なのにすごいな、と思わず漏らすと、あんまり曜日感覚がなくて、と苦笑される。書き物の資料なのか、部屋はさまざまな書籍が積み上げられていた。雑多に見えて、仕事部屋として使いやすいように整理されているのが分かる。溜まり場だったころは空き缶が転がっていたりして、ひどい有様だったものだけれど。

柳本はまだ話し足りないような雰囲気を出していたが、ぼくのほうがいたたまれなくなり、軽く礼を言ってさっさとアパートを出てきてしまった。

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日は昇っている。電車も動いている。そのまま駅の改札を通ればいいものを、ぼくはかつてのぼくの家へ歩き出してしまった。馬場歩き。懐かしい単語だ。昼間歩く街は、昨晩とはまた違う表情をしていた。昨日は街並みの変わったところばかり目についたが、今度は変わらないところを見つけては思い出が蘇った。ライブの打ち上げの三次会で夜を明かしたカラオケ屋。映画通を気取りたくて行ってみたもののほとんど寝てしまった名画座。就活用のスーツを買った服屋。あなたは愛ってものを理解してない、とかひどい言葉を吐かれてふられた喫茶店。

大学のあたりに着いてから、学生のころよく通っていたラーメン屋が見当たらなかったことに気がついたが、代わりになんの店になっていたのかは分からなかった。

大隈講堂の前を抜けて、キャンパスの裏手にまわる。日曜だから授業はないはずだけれど、学生たちがちらほら歩いている。このあたりに住んでいるのだろうか。かつてのぼくと同じように。

大学のすぐ裏にあったぼくの家も、仲間うちの溜まり場のひとつだった。古びたアパートの103。

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そこは時が止まったかのように何も変わっていなかった。目の前の街路樹、壁のシミ、外付けの階段。思わず一歩踏み出したとき、ドアが開いた。

派手に髪を染めた大学生がぼくを不審げにちらりとにらんだあと、わざとぶつかりそうな距離で大股に歩き去って行った。怒りはわかなかった。あどけない顔つきに、軽はずみな行動。こんな子供が都会でひとり暮らしなんて大丈夫なのか、ととっさによぎった感情に戸惑う。

あれはかつてのぼくだ。ここに住んでいたころのぼくは子供だった。子供でいられた。そしていま、ぼくは大人だった。仕事をし、金を稼ぎ、社会で生きる責任を果たさねばならないのだった。

ざあっと風が吹いた。アパートに住む誰かがギターを鳴らしているのが聞こえた。ぼくはしばらく呆然とその音に聞き入り、それから肩を落として駅へ向かった。

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月曜日。起きた瞬間からもう息が苦しいような気がしてくる。仕事ができないこと自体は問題じゃないのだ。向こうだってこっちが一年限定の見学者だってことは理解しているのだし。前任の出向者から話を聞いたときも、もちろん大変だけれど勉強になることは多いし楽しかったよ、と聞かされていた。その言い分も分かる。単にぼくと仕事、そしてぼくと上司の相性が悪い。それがつらい。

新卒からずっと同じ部署にいたから、ぼくが基本的に人によい第一印象をもたらさないことを忘れていたのだ。だらしなさそう、とか適当そう、とか。ぼくは普通にしているつもりなのだが。初めて挨拶したとき、上司の目にわずかな軽蔑がこもったのにぼくは気づいたけれど、すぐに挽回できると気に留めなかった。

学生のころも、札幌でも、それなりに仕事ができると認めてもらえたから、そういうキャラでもなんとなく受け入れられていた。でもここでは違う。ぼくはずっとよそ者で、仕事ができない部外者のままだ。いや、ここにあともう三年いられたら、彼らと同等かそれ以上に仕事をこなして見せる自信はある。でもぼくは無能な邪魔者のまま、ここを去る。悔しい。

普段は意識しないのに、故郷を背負っているような妙な責任感までうまれてきて、次の出向者がぼくのせいで不当な評価を受けないだろうかとか、余計な心配までしてしまう。

「林くん、明日の会議なんだけど、ついでにこの資料も作ってもらえるかな」

「ア、ハイ」

上から振ってくる上司の声に機械的に返事をし、デスクトップのメモに増えたタスクを書きこむ。今日の残業が一時間伸びた。でもそれだけだ、と自分に言い聞かせる。

なぜだか急に広末さんのことを思い出した。仕事をぜんぶ背負い込んでいた姿が、いまのぼくと重なった気がしたからだろうか。彼女はどうしているんだろう。もう契約が切れているから、きっと新しい仕事に就いているはずだ。ぼくとは二度と会うことはないだろう。

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出勤してからほとんど誰とも会話を交わさないまま、気づけば午前中が終わっていた。ふうっと一息ついて、ストレッチのつもりで首を回すと、入り口付近で立っていた見慣れぬ男とばっちり目が合った。髪をがっちりジェルで固めて、スーツもビシッとしている。たぶん出入りの業者の営業担当だろう。誰も応対する余裕がないので、目を合わせないようにしている。男も慣れたもので、目が合うやいなやぼくのほうにずんずんと歩み寄ってきた。名刺まで差し出されては応対しないわけにはいかない。慌てて立ち上がった。

「株式会社――の浜野と申しますが……」

彼が探しているのはぼくの上司だった。フロアを見回したが、いない。このあと打ち合わせとのことなので、会議室まで案内した。たぶん他の職員なら外で待っていて下さい、とか誤魔化してここまでしないんだろう。そういう職場だ。こうしてぼくの貴重な作業時間は削られていく。

浜野さんと名乗った彼はいかにもできる営業マンという立ち居振る舞いだが、異様に痩せていて、目が笑っていないのが気になった。戻り際、上司とすれ違ったので、名刺を渡して会議室へ案内したことを告げると、こちらを一瞥もせず「ああ」と言われただけだった。そういうところだよ、と心のうちで毒づく。偉そうにしやがって。しかしこんなところで腹を立てていても、仕事は減らない。

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結局、また誰よりも残業して、ノルマは終わらないまま帰路につく。こんな時間なのに座れないって、どうなってるんだよ、首都圏。晩ごはんはこの一年ずっとコンビニ頼りだ。選ぶ余裕もないから目についたものをてきとうに値段も見ずに買っているけれど、このごろ物価が高くて、レジのときにびっくりすることが多い。

スーツのままベッドにあがり、総菜パンをかじっていると米沢さんからメッセージの通知が入った。結婚式の件だろう。いまは返事をする元気がないからほうっておこう。

おとといのことなのに、つかの間学生時代に戻ったかのような飲み会のことを、はるか遠い過去のように思い出す。柳本も米沢さんも、順調そうだったな、とか勝手に自分と比べてしまう。少なくとも仕事はうまくいっているようだったし、恋愛だって、ろくな経験のないぼくから見ればじゅうぶん前に進んでいるように見えた。

両親は当たり前にぼくが結婚すると思っているだろう。結婚して子供を産んで、それが大人の責任だと思っている。でもとてもじゃないけど、そんな未来を作れる気がしない。ぼくはどうしたらいいんだろう。

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気づけばそのまま寝落ちしていたらしい。時計を見ると朝の五時だった。空が白んでいる。ああ、風呂に入って支度をして……。二度寝はしないほうがいいかもしれない。遅ればせながらメッセージを開くと、ぼくがギターボーカルでセンターに立つことになっていた。会場の関係でドラムが使えないらしく、柳本はベース、米沢さんはタンバリンでリズム隊になるらしい。大丈夫なのか。

私、親族の人とかの前で歌うの無理です、俺も、というバンドサークル出身者らしからぬ文面が並び、消去法で不在にしていたぼくにお鉢がまわってきたらしい。曲のチョイスも決まっていた。結婚式に定番のラブソング。初心者向けの曲としても有名だから、中学生くらいのころに弾いたことがある。みんな忙しいから、合わせる時間はほとんど取れないだろうが、演奏自体は問題ないだろう。

部屋の隅に立てかけていたギターを見る。絶対邪魔になるしいらない、と分かっていたのに、どこかで自分の心を助けてくれるかもしれないと持ってきてしまったのだった。まさか本当に出番があるとは。ぼくだって親族の人とかの前で歌うの無理だ、と思いつつ、悪い気はしていない自分に気づいた。ギターを手に取る。そっと、うるさくならないように、弦を爪弾く。小声で歌う。きれいな、愛をたたえるメロディ。

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火曜日。出勤。満員電車。睡眠時間が足りなくて朦朧としていたからか、それとも内なるロックンローラーの魂に火がついたせいか。

「林くん、昨日の件なんだけど、ついでに……」

「無理っす」

口が勝手に答えたのだ。嘘じゃない。言ってしまってから血の気が引いた。慌てて上司の表情を窺おうと顔を見ると、なんだかやつれていて、元気がなさそうだった。

「……スイマセン、自分もちょっと手一杯で」

「そうか。じゃあ、こっちでやっておくよ」

あっさりと引き下がられて、拍子抜けする。なんだ、断っていいのか。たしかにキャパオーバーなら断ればいいのだが、そんな甘えは通用しないと思いこんでいた。いや、もしかすると、ぼく自身のプライドが邪魔していたのかもしれない。

しかし増えたタスクを処理する上司は大丈夫なんだろうか。自分に余裕が出ると、急に憎いと思っていた相手のことが心配になる。そういえばぼくと同じくらい残業しているのだから、疲れた顔をしているのも無理はない。たしか、小学生のお子さんがいるんじゃなかったか。

かといって、やっぱりぼくがやります、と言えるような状況ではない。とにかく目の前のことをこなしていくしかない。ぼくにはぼくのできることしかできないが、そのできることだけでもちゃんとやろう。妙に吹っ切れた気持ちで、ふうっと息を吐いた。

文=貝塚円花
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。

こんにちは。にゃんこスターのアンゴラ村長です。皆さんは、毎日のように通っていた道ってありますか?学校までの通学路だとか、昔住んでいた街の駅までの最短ルートだとか。え……! 今、自分で打った「道」って文字を見て連想したんですけど、人の体にも「食道」ってありますね! 私たちは普段「道」を歩いているだけでなく、時にご飯の「道」となって歩かせたりもしていたんですね……!