エジプト・アラブ共和国
はるか紀元前3000年頃から統一王朝が栄えた人類文明発祥の地のひとつ。日本に住むエジプト人は2127人だが、このうち東京が最多の381人。会社員やその配偶者、留学生が多い。埼玉県126人、茨城県118人と、中古車業者などが北関東にも暮らす。
スパイスと香りが命の料理
アフリカ北部でよく見るタジン鍋を使ったムサアーも同様で、ナスやパプリカ、タマネギ、チーズ、ホワイトソース、トマトソースを煮込んでいるのだが、ナツメグやクミンの香りも欠かせない。
豪華にどーんと肉が盛られたミックスグリルのチキンを食べてみれば、その柔らかさだけでなくフルーティーな香りに驚いた。
「オレンジやレモンビネガー、ヨーグルトや牛乳、シナモンなどで、1日マリネするんです」
アラブ地域にはトルコ料理やレバノン料理など世界にも名高い食の文化があるが、エジプトの場合はこうして香り高く仕上げることと、それに肉や野菜もバラエティー豊富なことが特徴なんだとか。
そのひとつがモロヘイヤだろう。エジプト原産という説もあるこの野菜、かのクレオパトラがお気に入りだったとも、病気の王様がモロヘイヤを食べたら回復したとも伝えられる。まさに太古から伝わる野菜なんである。
『スフィンクス』のモロヘイヤスープは、チキンスープに合わせ、コリアンダーとカルダモンで味つけしただけのシンプルなもの。とろりとした舌触りがなんとも楽しい。
都下から埼玉に広がる、エジプト人コミュニティー
16歳の頃から料理を始め、20年以上の経験を持つガマルさんがつくる現地そのままの味を求めて週末はエジプト人でにぎわうというが、場所は西武池袋線・秋津駅の目の前なんである。取り立ててアラブやムスリム色の濃い界隈というわけでもないように思うのだが、なぜ秋津に鎮座したのだろうか。
「ここが私の地元なんですよ」
そう語るのはガマルさんの妻、渡辺昭子さん。結婚を機に、ふたりは昭子さんが生まれ育った秋津でレストランを開くことにしたのだという。
はじめは昭子さんのご両親が営む商店街の居酒屋の軒先でケバブを焼いていたそうだが、駅前に移ってきたのは2013年のこと。それからおよそ10年の間に、近隣には少しずつエジプト人が増えていった。秋津駅のある東村山市やすぐそばの清瀬市だけでなく、隣接する埼玉県の所沢市や狭山市に住むエジプト人もいるのだとか。
その理由のひとつが、「中古車ビジネス」だろう。中古の乗用車やトラックなどを買い付け、海外に輸出するのだ。埼玉や栃木などではこの仕事に携わる外国人が実に多い。というのも、北関東には中古車のオークション会場が点在しているし、土地が安いので、たくさんのクルマを保管しておく広いヤード(倉庫)を確保しやすいからだ。これはもともとパキスタン人が始めたビジネスといわれるが、同じイスラム教徒のつながりからかエジプト人もけっこういるのだそうだ。
彼らは商売の利便性に加えて、故郷そのままの味の『スフィンクス』があったことから、この近辺に拠点を構えるようになったのだろう。
「縁なんですよね」
昭子さんはそう語る。
いまではこの店がエジプト人コミュニティーの中心的な存在だ。関東地方だけでなく日本のあちこちにエジプト人は暮らしているが、例えば北海道や名古屋に料理を冷凍して送ったりもしているのだとか。
「九州に住んでいるエジプト人が一時帰国するついでにうちに来て食事をして、それから成田空港に向かう、なんてこともありましたよ」
と昭子さん。まさに在日エジプト人たちの胃袋を支える存在なんである。
ファラオのお導きか? 夫婦の運命的な出会い
「エジプトの人たちって温かくて陽気で、お互いにすごく助け合っていますよね」
そう語る昭子さんとエジプトとの縁はきわめて深い。幼稚園の頃だ。頭の中にふと、ニカブ(ベール)をまとったムスリマ(イスラム教の女性)が思い浮かんだことがあるそうだ。それからずっとエジプトが気にかかり続けた。大人になってから現地に足を運んでみると、メンフィスという街では初めての場所なのに、どこになにがあるのか手に取るようにわかった。占いでは「前世はエジプト人」と告げられた。
そして東京・六本木のエジプト料理店に食事に出かけたときに、そこで働いていたのがガマルさんだったというわけだ。
一方でガマルさんのほうも、子供の頃から「日本」を意識して育った。
「自宅の家電製品は日本製ばかりだったし、日本のアニメも好きだったしね。それにもともと、エジプトは親日的な国なんです」
そしてレストランのオーナーシェフとして活躍していたところ、腕を買われ、日本のレストランに招聘(しょうへい)されて東京へやってきた。
まさに出会うべくして出会ったふたりが、秋津の街で新しいコミュニティーをつくっていった。
「夜中でも明るい六本木からこっちに来て、最初は夜は早いし真っ暗だしびっくりしたけど、いまはここが故郷みたいに感じます」
そう話すガマルさんはふだんから自転車や車であちこち回っているようで「私の知らない日本人まで知ってる」と昭子さんは笑う。
ちなみに小学生の娘さんは古代エジプトの書籍を読み漁っているとかで、将来は考古学者になるかもしれない。
『スフィンクス』店舗詳細
取材・文=室橋裕和 撮影=泉田真人
『散歩の達人』2023年8月号より