グッモー! 井上順です。
渋谷のなかでも「ディープなエリア」と言われる百軒店。
道玄坂を上っていくと、途中の右側にその入り口がある。大きな赤い鳥居のようなゲートが目印だ。
いきなりストリップ劇場や無料案内所が目に入るので、入るのをためらってしまう方も多いかもしれない。
しかし、百軒店はたしかにちょっと怪しい雰囲気もありながら、昭和の時代の歓楽街のような懐かしさと温かさを感じられる飲食店街なのだ。
「関東大震災」をきっかけに名店街として誕生した百軒店
百軒店が誕生したのは今から約100年前。
1922年(大正11)に、中川久任伯爵の邸宅のあったこのエリアの土地を、「箱根土地株式会社」が購入したのが始まりという。
「箱根土地」は、西武グループの創始者、堤康次郎が設立した不動産会社だ。
当初は宅地として分譲される計画が進められていた。
渋谷駅周辺は坂が多く、百軒店の周辺も坂道、小路が入り組んでいるのだが、百軒店は平坦で道もまっすぐなので、このときの土地開発で造成されたのだろう。
しかし、翌1923年(大正12)に「関東大震災」が発生したことで、計画は急遽変更されることに。
被害の大きかった下町の有名店を誘致して、「100軒以上の店が並ぶ名店街」がつくられたのだ。
中心に劇場や映画館を配置し、それを囲むように小さな商店がずらりと並んでいたという。
大正時代の渋谷は、銀座や浅草など「都心の繁華街」に比べれば、まだ何もない「郊外の田舎」だった。そこに下町エリアの一流店が揃ってやってきたということで、百軒店は大変なにぎわいだったそうだ。
当時は百軒店が渋谷のセンター街みたいなものだったのだろう。
しかし、下町が復興していくと人々は少しずつここを離れていき、にぎわいも2年ほどのことだったという。
その跡地には新たに飲食店や映画館などが入り、「歓楽街」として再び活気を取り戻していく。
戦前・戦後から営業を続ける百軒店の老舗
百軒店には戦前・戦後から営業を続けている老舗飲食店がいくつもある。
たとえば、道玄坂から入って坂を上り、左側にある中華麺店『喜楽』。1952年オープンで、今も行列が絶えない人気店だ。
『喜楽』から角を左に曲がってすぐ右側にあるのが印度料理『ムルギー』。1951年オープンで、かつて作家の池波正太郎も足しげく通っていたという。ヒマラヤ山脈のように高く盛りつけられたご飯にムルギー(鶏肉)のカレー、ゆで卵が添えられた「玉子入りムルギーカリー」が有名だ。
そして、百軒店ができて間もない1926年(昭和元)にこの地で営業を始めた名曲喫茶『ライオン』。まさに百軒店の歴史を見守ってきた重鎮だ。ヨーロッパの古い洋館のような凝った店構えで、ファンも多い。
百軒店で昭和6年に創業のお好み焼き屋『たるや』
名曲喫茶『ライオン』の向かいに、1931年(昭和6)創業のお好み焼き屋『たるや』がある。
店主の吉田誠さんは僕の松濤中学校時代の同級生。三代目店主として今も厨房に立っている。
『たるや』は、外観も店内も昭和の時代からそのままのような雰囲気が心地よく、僕も心から落ち着ける店だ。
仕事帰りにふらっと立ち寄って、肩肘張らずにゆったり一杯やれる店。お好み焼き、もんじゃ焼き、鉄板焼きがメインだが、名物の「牛すじ煮」などの一品料理もおいしいと評判だ。
そして、どういうわけか店内のBGMはジャズ。よく見ると店内はジャズミュージシャンのポスターがいっぱい貼ってある。
なぜジャズなのだろう?
「私がもともとジャズが好きだったので。以前は手書きメニューの短冊が壁にずらっと並んでいたんですが、私の代になってからジャズのポスターで埋め尽くしました(笑)」と誠さん。
昭和の大衆酒場にメニューの短冊はおなじみの風景だけど、お好み焼き屋にジャズという組み合わせは珍しいと思う。それが不思議とマッチしていておもしろい。
『たるや』を創業したのは誠さんのお祖父さん。
最初は「樽の家(たるのや)」という屋号で、樽酒をずらりと並べた一杯飲み屋だったそうだ。創業時は今の場所ではなく、千代田稲荷神社の向かい側、現在は『Mikkeller Tokyo』になっているところにあった。
一杯飲み屋「樽の家」は、戦前は多くの常連さんたちでにぎわい、詩人の北原白秋が訪れたこともあったそうだ。
しかし、戦時中の1945年(昭和20)、山の手大空襲で店は焼失。百軒店一帯も焼け野原になってしまった。
戦後、現在の場所で店を再開したのが1951年。
戦時中に亡くなったお祖父さんのあとを継ぎ、お祖母さんが二代目店主となった。
店の常連さんたちが「女手ひとつでもやっていかないといけない。お好み焼き屋なら、女性ひとりでも切り盛りできるのでは?」と助言してくれたという。
「亡くなった祖父が関西出身だったこともあって、お好み焼き屋を選んだようです。当時は店舗ではなく平屋の住まいだったのですが、畳の上にお好み焼きの台を置いて、常連さんがみんなでお金を出し合って看板を作ってくれたり暖簾(のれん)を買ってくれたりして、お好み焼き屋『たるや』として再出発しました」と誠さん。
現在も『たるや』は古くからの常連さんが多く、孫の代まで三代で通ってくれているお客さんもいるそうだ。
戦後の百軒店は「娯楽街」、「ジャズ喫茶街」へ
戦後、百軒店は「娯楽街」として繁栄した。中央の通りにテアトル系の大きな映画館が3つも並んでいて、にぎわっていたことを覚えている。1950年代、僕が小学生から中学生のころだ。
映画館は1960年代後半ごろまでにはすべて閉館してしまい、現在はマンションになっている。
1960年代には、たくさんジャズ喫茶が並ぶ「ジャズ喫茶街」として知られるようになった。ジャズのレコードやライブ演奏が貴重だった時代、百軒店はたくさんのジャズファンが通う「聖地」みたいな存在だったのだろう。
時代は変わりジャズ喫茶はほとんど姿を消してしまったが、1969年オープンのロック喫茶『B.Y.G』は今も頑張っている。
『たるや』は、1972年ごろから誠さんもお祖母さんとともに店を切り盛りするようになった。
しかし、時代とともに百軒店の風景も少しずつ変わっていく。
「特に、1990年代前半にバブルがはじけたあと。景気が悪くなって店が次々に閉店して、百軒店はシャッター街になってしまった。うちの店の並びでは3軒くらいしか営業していないという寂しい時期もあった」と誠さんは振り返る。
景気が悪くなると街の雰囲気も悪くなる。百軒店を取り囲むように風俗店ができた。百軒店の入り口にも客引きが立っていたりして、物騒な感じになっていった。
状況がよくなってきたのは、ここ10年くらいのこと。
「警察の取り締まりも厳しくなったのか、違法な店がなくなり、客引きも見かけなくなった。だいぶ雰囲気がよくなりました」と誠さん。
バブル崩壊後はゴーストタウンになるのではないかと心配したが、百軒店には廃れそうで廃れない強さがある。やはり、千代田稲荷様が守ってくれているのかもしれないね。
コロナ禍でピンチに陥った『たるや』を救ったのは?
バブル崩壊後の不景気も乗り越えた『たるや』だが、2020年からのコロナ禍ではさすがに経営困難な状況に陥った。
そんなピンチに、頼もしい助っ人が『たるや』に加わった。誠さんの娘の有里さんだ。
実は有里さん、コロナ禍以前は会社勤めをしており、店には関わっていなかったという。コロナ禍で店の存続が危ういと聞いて店を手伝い始めた。
「SNSやクラウドファンディングの活用を提案したのですが、父は携帯も持っていないし、店には計算機もなくてソロバン、というアナログな状況だったので(笑)、店に関わるなら本腰入れてやらなくてはと思い、会社を辞めました」と有里さん。
「昭和」で「ジャズ」な雰囲気は変えずに、オペレーションやサービスの部分をよくしていこうと頑張っているそうだ。
「有里が店に入ってから、和式だったトイレを洋式に換えてくれたり、カード決済を導入してくれたりして助かっている。そういうところは任せられるし、接客もよくやってくれている。最近は有里が女将で僕がアルバイトみたいな力関係になってきた(笑)」と誠さん。
『たるや』という歴史のある店が、若い力によって引き継がれていくのは、誠さんにとっても何よりうれしいことだと思う。
有里さんが店に立つようになってから、明るく柔らかな雰囲気が加わって、ますます居心地がよくなった気がする。
コロナ禍によるピンチも、再び常連さんたち、『たるや』を気にかけてくれている方々の支援のおかげで乗り越えることができた。
本当にたくさんの人に愛されている店なんだね。
ついに百軒店も再開発??
百軒店では近年、若い世代の方々が手掛けるDJバーやレコードバー、個性的な飲食店などがたくさんオープンしている。若者や外国人観光客も集まるようになり、コロナ禍を経て街が再び活気づいている。
そんな中、2023年6月、気になるニュースを耳にした。
「東京都の『東京のしゃれた街並みづくり推進条例』に基づき、道玄坂2丁目地区が『街並み再生地区』に指定された」という。
百軒店もその地区に含まれているので、「ここも再開発で高層ビルに建て替えられてしまうのか?」と心配する声も聞こえてきた。
だが、街並み再生に関する資料を見ると、「百軒店エリア・道玄坂小路沿道の路地空間は、界隈性を活かしたウォーカブルな道路空間等の整備」とある。
このエリアの独特な雰囲気は残しつつ、道路の整備などが行われるようだ。高層ビルが建つことはないようで、ひとまず安心した。
大規模再開発で渋谷が変わっていくのもワクワクするのだが、百軒店はそのままの佇まいで生き残ってほしい。
『たるや』も2031年の「創業100周年」をめざして頑張っている。楽しみだ。
さて、誠さんと有里さんの顔が見たくなったので、今夜も『たるや』でおいしいお酒と料理をいただくことにしよう。〆は「もんじゃ」。
ということで、今回の記事はこんなもんじゃ(笑)。
撮影=阿部 了 構成=丹治亮子