かつては寛永寺の敷地であった 。上野公園は極上の散策エリア

スタート地点に選んだのはJR山手線の上野駅。ここは今さら説明の必要はないターミナル駅で、駅前には東京の観光地として人気の上野公園がある。駅を公園口から出たら、何はともあれ西郷さんの銅像前へ寄り道することに! 上野公園を象徴するこの銅像は、池波正太郎も目にしたであろうと思うと、感慨もひとしおだ。などと思いつつ、公園内を北へと向かって歩き始めた。

上野公園のシンボルと言える西郷隆盛像。
上野公園のシンボルと言える西郷隆盛像。

国立科学博物館を過ぎると、公園を横切る車道がある。それを渡った角には「寛永寺旧本坊表門」が建っている。寛永寺は江戸時代、日本最大の寺院だった。現在の上野公園には、寛永寺の堂塔伽藍が整然と並んでいたという。今の噴水池周辺に本尊の薬師如来を奉安していた根本中堂があり、その後方で現在は国立博物館の敷地となっている一帯に本坊が建っていた。慶応4年(1868)5月の上野戦争の際、この門を除きことごとく焼失。

切妻造本瓦葺、潜門が付いた格式の高い薬医門だが、大名屋敷の表門と比べると装飾が少なく重厚な雰囲気を醸し出す。この門の並びに、鳥取藩池田家の江戸上屋敷の表門が移築されているので、ぜひ見比べてみよう。

寛永寺の旧本坊表門だった格式の高い薬医門。上野戦争の際の弾痕が残されている。
寛永寺の旧本坊表門だった格式の高い薬医門。上野戦争の際の弾痕が残されている。
鳥取藩の池田家上屋敷の表門。堂々とした造りは格式の高さを感じさせる。
鳥取藩の池田家上屋敷の表門。堂々とした造りは格式の高さを感じさせる。

震災や戦災の被害が少ない谷中は 物語の舞台がそのまま残されている

寛永寺の表門と池田家の表門前を通り、東京藝術大学正門前をそのまま真っ直ぐに西へ向かうと、江戸時代の商家建築を今に伝える「吉田屋酒店」前に出る。吉田屋はかつて谷中6丁目で代々酒屋を営んでいたが、その建物を移築し「下町風俗資料館付設展示場」として開放している。内部には秤や漏斗、升、徳利、宣伝ポスターなどを展示。2023年7月現在は残念ながらリニューアル工事中だ。

旧吉田屋酒店を利用した『下町風俗資料館付設展示場』。2024年いっぱいはリニューアル工事中だ。
旧吉田屋酒店を利用した『下町風俗資料館付設展示場』。2024年いっぱいはリニューアル工事中だ。

吉田屋酒店が建つ交差点を左に曲がると、次の交差点角に一乗寺が建っている。この寺は、『鬼平犯科帳』の2巻に収められている「谷中・いろは茶屋」に登場する。火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)同心の木村忠吾は、谷中にあった「いろは茶屋」という岡場所の飯盛女(娼婦)お松に熱をあげ、せっせと通い詰めていた。ところが勤務交代により内勤となってしまったため、外出が難しくなってしまう。

だがお松に会いたい一心で役宅を抜け出した忠吾は、いろは茶屋に向かう途中の谷中善光寺坂を登り、一乗寺の角を曲がったところで怪しい黒装束の一団と遭遇する。それは墓火の秀五郎を頭とする盗賊団であった。

一乗寺の横路から盗賊の一人を尾行した忠吾は、その男が上聖寺の向かいにあった数珠屋に入るのを確認すると、寺の中から見張りをしつつ、役宅への連絡を頼んだ。こうして思わぬ手柄を立てることとなる。

一乗寺と並んで善光寺坂には上聖寺も現存している。盗賊団の盗人宿となっていた数珠店の油屋は、現在は上野消防署谷中出張所がある辺りだと言われている。谷中は震災や戦災の被害をあまり受けていないため、東京都内では珍しい古地図通りの寺町が残っている希少なエリア。池波作品に登場する人物の足跡をこれほど鮮明に辿れ、しかもその面影を感じられる場所は大変珍しい。

木村忠吾が強盗団を目撃したのは、一条寺脇の横道あたり。
木村忠吾が強盗団を目撃したのは、一条寺脇の横道あたり。
忠吾は賊の一人が入った数珠屋の正面にあった上聖寺で張り込みをする。
忠吾は賊の一人が入った数珠屋の正面にあった上聖寺で張り込みをする。

上聖寺を尋ねた後は、再び吉田屋酒店がある交差点まで戻り、そこを谷中霊園方面へと向かう。すぐ左手には「幕末の三舟」と呼ばれたうちの一人、高橋泥舟の墓がある大雄寺が見えてくる。三舟とは幕末に活躍した勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟のこと。

泥舟は他の二人と比べると地味な印象を抱いてしまうが、主人である徳川慶喜の側を離れず、維新後に政府から官職に就くことを請われたが、断り続けている。維新後、慶喜が静岡に移り住むとこれに従っている。晩年は牛込矢来町で過ごした。境内にある泥舟の墓の脇には、都の保存樹に指定されている立派なクスノキが枝を伸ばしていて、これが目印だ。

高橋泥舟の墓がある大雄寺。境内に見える大樹がクスノキで、その下に墓がある。
高橋泥舟の墓がある大雄寺。境内に見える大樹がクスノキで、その下に墓がある。

静かな住宅街の随所に歴史を伝える 。名所や古刹が残るのも谷中ならでは

大雄寺から道なりに歩いて行くと、右手に谷中霊園の入り口があり、そこを少し入ればいろは茶屋があったとされる場所に至るが、その前に三崎坂(首ふり坂)方面へと向かう。木造の雰囲気がある商店前を過ぎると、明治維新で殉じた人々の菩提を弔うために、山岡鉄舟が創建した全生庵がある。

境内には鉄舟の墓をはじめ落語界を代表する名人・初代三遊亭圓朝の墓もある。これは圓朝の禅の師が鉄舟だった縁による。8月初旬には圓朝まつり、中旬には圓朝寄席が行われている。境内からの景色も素晴らしい。

三崎坂(首ふり坂)には昔ながらの木造家屋が残る。多くが店舗に再利用していた。
三崎坂(首ふり坂)には昔ながらの木造家屋が残る。多くが店舗に再利用していた。
全生庵の境内からの風景。空の広さを感じる。
全生庵の境内からの風景。空の広さを感じる。

全生庵の先にある谷中小前の交差点を右に曲がり、しばらく狭い道を辿ると、東京美術学校(東京藝術大学の前身)の設立に携わり、日本美術院を創設して日本美術の発展に寄与した岡倉天心の旧居跡に造られた「岡倉天心記念公園」がある。園内には茨城県五浦にあるものを模した六角堂が建つほか、さまざまな場所に六角形が隠されている。

岡倉天心の旧居跡に造られた「岡倉天心記念公園」。六角堂内には天心の坐像が。
岡倉天心の旧居跡に造られた「岡倉天心記念公園」。六角堂内には天心の坐像が。

岡倉天心記念公園まで足を延ばしたら、宗林寺にも立ち寄りたい。ここは鬼平と人気を二分する『剣客商売』に登場する寺だ。番外編の「ないしょないしょ」の主人公お福が秋山小兵衛の助太刀を得て、仇討ちを果たした場所が、この宗林寺の裏手にあった百姓家という設定になっている。

『剣客商売』に登場する宗林寺。
『剣客商売』に登場する宗林寺。

東京名所の築地塀脇を歩き霊園へ。東京の空の広さも味わえる名所

宗林寺を出たら岡倉天心記念公園の方に戻り、先の路地を左に入る。前方は行き止まりのように見えるが、クルマは進入できない小径が右手に延びている。かつて「螢坂」と呼ばれた坂に出る。ここは江戸時代の『御府内備考』で「宗林寺の辺も螢沢といえり」と記された、蛍の名所であった。坂を登り切った右手には、初音の森が広がっている。

かつては蛍の名所だったことから名付けられた螢坂。
かつては蛍の名所だったことから名付けられた螢坂。

初音の森を右手に見つつ小径を左に曲がると、谷中のシンボル的な存在「観音寺築地塀」がドーンと目に飛び込む。関東大震災の折りに一部が崩れたが、残されている部分だけでも、往時の姿を十分に感じられる。

この観音寺はかつて長福寺と称していて、第六世となった朝山大和尚は、赤穂浪士として吉良邸に討ち入った近松勘六行重と、奥田貞右衛門行高の兄弟であった。その縁から、当寺でしばしば会合が開かれたという。本堂に向かい右手にある宝篋印塔は、古くから四十七士慰霊塔として、現在でも参拝に来る人が絶えないのである。

谷中のシンボルとも言える観音寺築地塀。
谷中のシンボルとも言える観音寺築地塀。
四十七士ゆかりの観音寺。本堂脇の宝篋印塔は慰霊塔と言われている。
四十七士ゆかりの観音寺。本堂脇の宝篋印塔は慰霊塔と言われている。

観音寺の門をでて右手に進むと、再び三崎坂の入り口に戻ってくる。そこから谷中霊園の中へ入ると、すぐに「いろは茶屋」が建っていた辺りに出る。園内の『金子屋』と『ふじむらや』という花屋が並んで建っているあたりに、いろは茶屋はあったとされている。

江戸時代、谷中霊園は全て天王寺の境内であった。貞享の頃(1684〜88年)から、天王寺門前には遊所が開かれていた。『鬼平犯科帳』をはじめとする池波作品では、お馴染みの場所なのである。元禄13年(1700)からは、江戸幕府公認の富くじが興行され賑わった。

さらに霊園内のメインストリートを辿って行くと、かつては谷中霊園のシンボルとして愛された、五重塔が建っていた場所に出る。塔は昭和32年(1957)7月16日、無理心中による放火で焼失。現在は小さな公園となっていて、五重塔は礎石だけが残されている。

現在の天王寺は、霊園の端にひっそりと佇んでいる。境内でひと際目を引くのは、釈迦如来坐像であろう。この大仏は元禄3年(1690)に鋳造されたものだ。こうした古い仏像が残されているのを見ると、この地域が震災や戦災と無縁だったことが実感できる。

谷中霊園内に建つ花屋のあたりに、「いろは茶屋」があったという。
谷中霊園内に建つ花屋のあたりに、「いろは茶屋」があったという。
戦災にも遭わずに残った五重塔は、心中による放火で焼失した。
戦災にも遭わずに残った五重塔は、心中による放火で焼失した。
現在の天王寺境内。左の大仏が目を引く。
現在の天王寺境内。左の大仏が目を引く。

次回も池波作品に登場する江戸の地を探し求め、下町を歩き回ってみたい。

取材・文・撮影=野田伊豆守