琴似神社を過ぎたところでステーキ屋が弁当を売っていた。いくつかの飲食店は食材を腐らせるわけにいかないからか、外で弁当を作って出していた。たしかにガスは出るのだから、料理はできる。いつまで販売しているかわからないしすぐ買った方がいいとわかっているのになんだか決めきれず、行列には並ばず歩いた。浜野くんと別れた地下鉄琴似駅の近くまで来てもまだグミしか持っていなくて、やっとインドカレーを買った。

結果的にはこのカレーが多すぎて、翌日までカレーとナンだけで過ごすことになるのだが、わたしは買わなかった弁当のことを思い出して後悔していた。離婚の話が出てから食料品のストックはなるべく買わないようにしていたし、テレビがつかない以上スマホの充電が切れてしまえばなんの情報も得られない。

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家には浜野くんの方が先に帰っていて、買っていたのは五枚切りの食パンひとつだけだった。JRの駅のそばにあるイトーヨーカドーでは一階のふだん催事に使っている部分だけを開放していて、店員がカートに食料品の在庫を並べていたという。パンは備蓄しておくことにして、わたしたちはうす暗い中でカレーを食べた。浜野くんは妙に饒舌で、最後のひとつだったから、隣の人が同時に手を伸ばしてきたのに競り勝ったのだ、と自慢げに言っていた。

わたしのスマホは充電が切れていたが、浜野くんの会社の方のスマホはまだぎりぎり生きていた。ペットボトルをスマホの上に置くと光が拡散するというのを浜野くんが実践して見せてくれたけれど、充電がもったいないので少ししかやらなかった。窓の外を見ると、大通りの向こう側の地区だけ灯りがついているのが見えた。なんだかずるい感じもしたが、こちら側が復旧するのも心配していたほど時間がかかるわけではなさそうだった。

近くに充電させてくれるところがある、と浜野くんが言ったので、明日はそこへ向かうことに決めた。わたしは毎日シャワーを浴びないと気が済まないたちなので、真っ暗な中シャワーを浴びた。浜野くんはそのまま寝たらしかった。本当は起きていたと思う。わたしもずっと部屋の天井を見つめていた。友達に返信しきる前に充電が切れてしまったことで、心配をかけているだろうと思った。

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二日目の昼、地下鉄が復旧したと言って浜野くんは会社へ出かけていった。わたしも充電をしに出かけなければならなかったが、非常事態に心身が疲弊していたのか、なかなかベッドから起き上がることができなかった。日が傾きはじめていることに気がついてからやっと重い体を動かし、身支度を整え、ためしにリビングのスイッチを操作するとあっけなく電気がついて、思わず笑ってしまった。

浜野くんはなかなか帰ってこなかった。心配してくれていた友達に無事を連絡してから、楽しみにしていた音楽記事が更新されていたのを思い出して読み始めると、やっと一息ついたような気分になった。わたしの好きなタイプの音楽は浜野くんにばかにされそうなので、教えたことはなかったと思う。記事ではライターさんが面白おかしくも鋭い視点でヒットチャートを分析していて、いつも感心してしまうのだった。いつの間にか日は完全に落ちていた。おなかが空いたので、セイコーマートで買った果汁グミはひとりでぜんぶ食べてしまった。

わたしは片付けを再開した。冷蔵庫は完全に室温になっていた。冷凍庫はほんのり冷気が残っていたけれど、中のものが溶けているのはすぐわかった。わたしはゴミ袋を広げ、目についたものを片端から捨てていった。ちくわとか、卵とか、多少常温で放置されたくらいじゃ腐らないだろうとよぎったが、かまわなかった。どちらにせよ、引っ越し日までには食べ切れない量だった。とくに冷凍庫はひどくて、底の方に入っているのはとっくに忘れていたものばかりだった。

冷凍食品の餃子、パスタ、うどん、鶏肉、切っておいたネギ、にんじん、ニラ、アイス、果物。コンビニで買った冷凍マンゴーや冷凍ブルーベリーとともに、タッパーに入った巨峰が沈んでいるのが目に入った。たしか夏ごろ親戚から送られてきて、食べ余したのを冷凍してあったのだった。

あれ以来、浜野くんにぶどうが好きかどうか聞いたことはなかった。一緒にグミを食べる機会も、結局なかった。ときどき食卓にのせてみても、特に感動した様子はなかったから、好物というのも嘘だったのかもしれない。わたしは彼が獲得した食パンのことを思い出した。贈答用のぶどうだから、捨てるのはもったいない、と急に言い訳がましく思った。簡単にジャムを作って、明日の朝ご飯にしよう。

わたしは半解凍になったぶどうを小鍋にいれ、目分量で砂糖を入れて火にかけた。甘い匂いが家中に充満した。煮えるまでのあいだに冷蔵庫の片付けはすっかり済んでしまった。

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浜野くんは会社の片付けのために一晩オフィスに泊まって帰ってきたのだった。わたしは先に朝ご飯を済ませてしまっていたので、彼はひとりで食卓に座り、出されたぶどうジャムをおとなしくパンに塗って食べていた。

わたしは片付けの合間にその姿を覗き見ながら、好きだったよね、と聞いたかもしれない。たぶん、え、なにが、と返ってきただろう。でももし、うん好き、と返ってきていたら? わたしたちの溝はたちまち埋まり、心はひとつになり、まだ一緒に暮らしていただろうか。眠れない日が続くと、そういう無意味なことを考える夜もある。現実にはわたしも彼も一言も発さないまま食事は終わり、地震によって乱された日常は緩やかに修復され、中断された手続きも粛々と再開されただけだった。

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帰宅すると電気はつけっぱなし、カーテンも開きっぱなしで、残業に疲れ果てた自分の顔が窓ガラスにぼんやり浮かんでいた。とにかくまずはご飯にしよう、と部屋着に着替え、買いためているレトルトカレーを温めた。

財産を按分するときに、わたしの方が収入が少ないからと、新居で必要な家電や家具を買うお金を上乗せしてもらった。あのときは時間もなかったし、なんだか遠慮して家電や家具はなにもかも小さなもので揃えてしまったけれど、いま思えば最新式の高いやつを買ってやればよかった。特に冷蔵庫は作り置きをする余裕がなくて不便だ。彼は見栄っ張りだったから、断ることはできなかっただろう。こういう図太い考え方が浮かんでくると、不眠で苦しんでいたころに比べてずいぶん元気になったものだと自分で思う。

できあがったカレーを皿に盛り、林さんからもらったシガールも机へ出しておく。夜だけど、あとでコーヒーを淹れよう。今日は頑張ったのだから。

あれから五年も経った。夜うなされることはなくなったし、自由な生活を謳歌する余裕もうまれてきた。思ったように働けないと気づいたときは絶望したけれど、まあ、真面目な性格のおかげで冷蔵庫を買い換えることができるくらいには貯金がある。

SNSをひらくと、朝思いついて投稿した短歌にいくつかの反応がついていた。自分のためにやっていて、誰に向けて放っているわけでもないものを、捕まえてくれる人がいることには、いつも不思議な喜びがあった。

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そろそろ新しい一歩を踏み出すことを、自分に許してもいいのかもしれなかった。それがなにかはまだわからない。手始めに家具を買い換えることか、あるいは引っ越してしまってもいいし、諦めていた正社員の仕事も、やってみれば案外いけるかもしれない。いっそ新しいパートナーを探してみるとか? いや、人間との生活はもうこりごりだから、ペットと暮らしてみるのはどうだろう?

とりとめのない思いつきに、なぜだか笑いが漏れた。ふと視線を横へやると、まだカーテンは開いたままだ。映っているわたしの顔は思っていたより楽しそうで、ガラスの向こうでは無数の家々の生活が光を放っていた。

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文=貝塚円花
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。