警官の誘導にしたがって横断歩道を渡った。渡りきったところに、短歌を始めてからわたしがお世話になっている美容室があるはずだが、たしかそのときはまだいまの店主ではなかったので、わたしが気を留めることはなかった。

短歌を作るようになったのは離婚してからだ。はじめは浜野くんと別れた経緯を文章にしてまとめるつもりだった。心の整理をしたかったし、面倒な手続きの進め方を記載してどこかに投稿すれば誰かの役に立つかもしれないと思った。けれど、書きたいと思って書いているはずなのに、どんどん気持ちがバラバラになって、文章は要領を得ないものにしかならなかった。

それでもなんとか書き上げようと同じ単語を何度か反芻しているうちに、なんかこれって短歌っぽいな、と思考がそれて、試しに三十一文字に収まるように考えていると、パズルみたいにぱちっとはまる瞬間があった。できあがったのはいま思えば不格好な作品だけれど、まとまっていないぐちゃぐちゃな気持ちをそのまま閉じこめられたのが嬉しかった。

わたしには文章よりこっちの方が向いているかも、と試しに作っているうちに、SNSにできたものを投稿するようになり、次第に友達も増えた。浜野くんと暮らしているころだったら、そんなことをして何になるんだと鼻で笑われていたと思うから、きっとすぐやめてしまっていただろう。

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浜野くんのことを怖いと思うようになったのは、札幌に来てからだった。浜野くんは仕事の愚痴をわたしに言わなかったが、順調に進んでいたはずの彼のキャリアが、どうやら少し屈折したらしいと、雰囲気で察した。残業が多くなって、朝方帰ってくることもあった。ご飯を食べずに家を出て行くことが増えた。いつもなんとなく機嫌が悪くて、口数が少なくなった。あとから知ったことだが、悪名高いパワハラ上司が彼についていたらしかった。

わたしは彼の機嫌をとるために、道化を演じるみたいにしてわざとばかなことを言ったり、ひとりで喋りまくったりした。浜野くんはそれにもいらいらしているみたいだった。自分の空回りは、かつて絶対にこうはなりたくないと思いながら見ていた父と母の関係に似ていた。

わたしの父親は、怒ると手が出る人だった。日常的に暴力があったわけではないが、母がなにか意見を言って口論になると、最後は必ず頬を張った。殴られた母は泣きもせず、感情の読み取れない真っ白な表情でいつも黙り込んでいた。

だから、浜野くんがわたしの胸ぐらにつかみかかったとき、思わず口をついて出た「卑怯者」という言葉は、わたしだけが言ったのではなくて、母とわたし、二世代ぶんの怨念がこもっていたに違いなかった。浜野くんはわたしが大声を出すと思っていなかったのか、ひるんですぐに手を離した。

その日からわたしは浜野くんの機嫌をとるような言葉や態度をやめた。わたしたちの間には驚くほど会話が消えた。ここ数年間のわたしたちの関係は、主にわたしの努力で構成されていたのだな、と気づくと、ますます元のように振る舞うのは難しくなった。浜野くんはずっと不機嫌そうだったが、かといって関係の改善を要求したりすることはなく、ほとんど喋ることのないまま一年をすごした。最後のきっかけは浜野くんへの転勤の辞令だった。十月に名古屋へ行くことになった、と久しぶりに彼の声を聞いた。

「どうせ、ついてくる気ないんだろう」

否定の返事を期待している声だったが、わたしは正直に言った。

「うん」

「じゃ、どうするんだよ。別れるのか」

「うん」

「うんじゃないだろ。離婚する気か」

「離婚する。わたしは札幌に残る」

浜野くんは、呆れたような吐息を漏らして会話を打ち切った。そうは言っても、なんだかんだで別れずに引っ越しの準備が始まるのだろうと心の片隅で諦めている自分もいた。日常はただ過ぎていった。三日後、今度は浜野くんの方から離婚したいと言ってきた。わたしは了承した。決まってしまえば、事務的な話し合いや手続きは淡々と進んだ。

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札幌に残ることを決めたのは、実家に戻りたくなかったのと、そのときパートとして勤めていた職場をすぐに辞めたくなかったからだったが、結果的にそれは正解だった。本当は落ち着いたら正社員として働ける職場を探すつもりだったのに、別居が済んでから不眠がどんどんひどくなって、それどころではなくなった。浜野くんに殴られたり、父から怒鳴られたりする夢をしょっちゅう見ていた。仕事中にもぼんやりしてしまい、ミスが増えた。

病院へ行くとうつ状態と診断されて、あっさり抗うつ薬と睡眠薬を処方された。自分が薬を飲むようになって初めて、浜野くんの異常に気がついたとき、病院に連れて行ってあげればこういう結末にはならなかっただろうか、と何度か考えた。でもあのときは思い至らなかったし、もう遅すぎた。ただでさえスキルも資格もないわたしが、病状を管理しながらできる仕事は限られていた。

仕事を辞めることを残念がってくれた上司の言葉を、そのころもたしか思い出した。言われた当時は反応に困ったが、わたしを心配してのものだというのはわかっていた。上司の友人だった女性は、離婚後、ブランクを抱えての再就職がうまくいかず、ひとりで子供を育てることに苦しんで、ついには死を選んでしまったと飲みの席かなにかで聞いたことがあった。女の子も、仕事を手放さない方がいいのかもしれないねえ。わたしは適当に相づちを打ちながら、おじさんがなにをわかったようなことを言っているんだろう、と思っていた。けれど、なんだかんだいって仕事を続けてきたのは、その話が心の片隅に残っていたからかもしれない。

わたしが浜野くんと同じくらい稼ぐことができていたら、もっと対等な関係でいられたのだろうか。料理の味付けにしょっちゅう文句を言われたり、カーテンの閉め忘れや電気の消し忘れくらいでなじられたりしなかっただろうか?

そもそもわたしはどうして浜野くんとの結婚を決めたのだったか。別れてから考えると、趣味も考え方も、はじめからなにもかも合っていなかったのに。

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そう、たしか、初めてのデートで、浜野くんは見栄を張って、わたしをびっくりするような高級レストランへ連れて行ってくれた。風の噂で、わたしのことを大和撫子みたいだとかなんだとか言っているというのは聞いていたから、口説かれるのはわかっていた。要するにそれも彼なりの根回しで、のこのこ誘いに乗った時点で彼の告白はほとんど成功していたわけだ。彼は自信たっぷりだった。

そんなところに来ると思っていなかったから、普通のオフィスカジュアルに毛が生えたような服を着ていたわたしは気後れして、フォークとナイフを使う順番とか、ナプキンのたたみ方とか、なけなしのマナー知識を頭の中で反芻するのに忙しかった。緊張していたせいで料理の味はまったく思い出せないが、夜景がきれいな席だった。浜野くんは髪をジェルで固めて、店員さんへの対応も堂々としていた。

「ここ、ワインが有名なんだよ。いい赤ワインが揃ってるんだ」

「浜野くん、ワイン好きなんだ」

「ああ、まあね。ぶどうが好きだからさ」

わたしがきょとんとしたのに、彼は気がつかなかったと思う。いかに上のひとに気に入られているか、わたしにアピールするのに忙しそうだったから。でもわたしが彼を好きになったのは仕事ができるからではなくて、ぶどうが好き、と言ったときのその無防備さだった。

ワインなんてわたしと同じくらいなにも知らなかったに違いない。それに気づかれているとも知らずに得意げな顔をしているのを、かわいいと思った。次に会うときはぶどうの果汁グミかなんかをコンビニで買って、気安く一緒に食べたら楽しいだろう、と思ったのだ。

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文=貝塚円花
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。