戦国の寺社は戦の備え、大須商店ができた理由

早速ではあるが、何故、大須商店街ができたのか?

それは、かつて多くの寺院が集まる寺町がこの辺りにあったからじゃ!

大須商店街の名前のもとになってる大須観音や萬松寺、北野神社や三輪神社など今でも多くの寺社が残っておる。

因みに萬松寺は織田信長様の父上・信秀様の菩提寺であるほか、名古屋城を築城する折に天守台の建築を担っておった加藤清正が宿としておったりと、我らと誠に深い関わりがある寺でもある。

さて、現世での寺や神社は、初詣や七五三などの催し、観光の折に訪れる場所であろう。

然りながら戦国時代においては人々が集う交流の場所であると共に、兵站や武器を集め、頑丈な門や櫓を構えて戦に備える場所としての側面が強かった。

中には城や砦と比べても勝るとも劣らない寺院もあったほどじゃ。かの本能寺は、東西に150メートル、南北に300メートルの広大な敷地を持っておった。そこに一重の堀と石垣を構え、攻め入られた時の備えか建物も複雑に入り組んだ作りをしておったのじゃ。

こういった寺社をひとところに集め、防衛施設としたのが寺町である。戦国武将もこの側面を生かして、城下町に寺町を作り城の防衛の役割を持たせたのじゃ。寺町はただ守る場所にあらず、人を寺町に集めて一気に攻勢に出ることもできたわけじゃ!寺町は最早城の一部とも言えるかも知れぬな。

そして今の大須商店街の元となった寺町も、名古屋城が建てられた折に東海地方の有名な寺社を集めて、名古屋城下の前線防衛基地として作られた町なんじゃな。

すると寺に参詣するものや寺町につながる街道を往来するものでにぎわう様になり、集まった人々を相手に様々な商いが始まる。

商店や宿屋、芝居小屋など多くの店が並び、次第に規模が大きくなっていった、これが大須商店街の始まりであるな!!

強さの秘訣は寺町にある!我が居城金沢城について

さて、此度は大須商店街を例にあげたが寺町は戦国時代に日ノ本各地に作られた。その名残として寺町と地名が残っておる場所もいくつかあるわな!

例えば儂が治めし石川県が金沢も寺町が有名で、金沢城下に三つの大きな寺町がある。現世では寺院群と呼ばれ観光名所となっている場所じゃ。忍者屋敷として人気の妙立寺や大きな桜が有名な松月寺など様々な寺院が集うておるぞ!

では何故三つも寺町が作られたのか、それは金沢城が堅固な城ではなかったからじゃ!!

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徳川殿の天下になって外様大名の筆頭であった我が加賀藩は徳川幕府からひどく警戒されておってな、少しでも不穏な動きを見せようものなら改易あるいは転封。憂き目にあってしまうのじゃ。

金沢城の改修を行えば叛意ありと思われる恐れがあったがため、堅牢な城にするための仕組みを整えることができなかった次第である。

然りながら万が一への備えは必須である。そこで当時の藩主で儂の息子でもある前田利常が考えたのが城の外の三方に寺町を作ることである。

これで徳川殿に睨まれることなく、守りを固めることができたわけじゃ!

他にも金沢の寺町には、織田家によって制圧されたものの、未だ勢力の強かった一向衆の押さえとしての役割もあった。寺町に一向宗以外の宗派を集め、一向宗の寺は散在させることで一向宗が結託、蜂起することを未然に防いだというわけじゃな。

終いに

此度の戦国がたりはいかがであったか!

此度は町の歴史から寺町について紹介して参ったが、皆々が住む町も由来を辿れば意外な歴史が関わっておるやも知れぬ、一度調べてみると面白いであろう!

これよりも、戦国がたりでは戦国のおもしろき話を紹介して参る所存である。大河『どうする家康』は金ヶ崎に姉川に三方ヶ原と戦国の最も激しき時代へと進んで参った。これよりの展開も共に楽しんで参ろうではないか!

此度の戦国がたりはこれにて終い。

また会おう、さらばじゃ!!

文・撮影=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)