なぜ戦になったのか?

三方ヶ原の戦いは1573年、京を目指し徳川領へ侵攻する武田信玄殿と領土を守らんとする徳川殿との間に起きた戦いである。

以前の戦国がたりでも紹介した通り、徳川家と武田家は同盟関係にあった。

桶狭間の戦いにて今川義元殿が討ち取られ、勢いをなくした今川家を見限った武田家と同じく今川を見限り独立を図る徳川殿の思いが重なり、武田が駿河を、徳川が遠江を攻める約定にて同盟が結ばれたのじゃ。

この同盟による挟撃で今川家は滅び、徳川殿は三河と遠江の二国を治める大名となることが叶った。

では何故両家は対立してしまったのか。

ことのきっかけの一つに徳川殿が当時武田家と敵対関係にあった北条家と同盟を結んだ事がある。

北条家と武田家もかつては同盟関係にあったのじゃが、武田家が徳川家と結び、今川家に攻め入ったことに憤った北条家は同盟を破棄、敵対関係になった。

この同盟について気になるものは以前の戦国語りにて戦国時代の同盟についてまとめたで、読んで参ると良い!!

皆々、息災であるか、前田又左衛門利家である。戦国がたり第七回開幕じゃ! 此度は皆々に戦国の基礎知識、同盟について話して参ろう!同盟とは、大名家の間で結ばれる軍事協力、或いは戦をしないことを定めた契約のことである。大河ドラマ『どうする家康』でも信長様と家康殿の同盟である清州同盟が描かれておったわな。そこで此度は、戦国時代にあった代表的な同盟やおもしろき同盟について三つ紹介して参ろうではないか!!いざ参らん!!

信玄殿からすれば、東から北条、西から徳川に挟み撃ちされる事を恐れたわけじゃな。

大河『どうする家康』でも徳川家が北条と結び、今川氏真殿を北条家に匿った事に憤る信玄殿の姿が描かれておったわな!

勢力拡大の機会を挫かれた信玄殿は徳川殿を大いに恨み、駿河支配が盤石とみるや遠江へ侵攻を開始するのじゃ。その際にも家臣に当てた手紙の中で「三ヵ年の鬱憤を晴らす」と記しており、信玄の怒りが相当なものであったことがわかるであろう。

一気呵成の進軍を見せる武田軍によって次々と城を落とされ、遂に本拠浜松城まで迫られた徳川殿は籠城をきらい、野戦にて雌雄を決することとなる。

この戦いが三方ヶ原の戦いである。結果は皆が知る通り徳川殿の大敗、目の前に敵が迫る中、家臣が次々と徳川殿の身代わりとなり命からがら浜松城へ帰り着いた。これは誠に徳川殿の人生一番の危機であったと言えるであろう。

ここまでは三方ヶ原の概要、これよりは戦国がたりらしく裏話を話して参ろうではないか!!

上の話を頭に入れて進むと良いぞ!

徳川殿のせいで嫌々敵対、信長様と武田の関係

徳川家と織田家は昵懇(じっこん)の仲で、武田家との戦に関しても手を取り強敵に立ち向かったと現世ではよく描かれる。

然りながら実は武田家との対立、かなり信長様は渋っておられた。

三方ヶ原の戦いが起きた頃の信長様は、天下静謐のため、足利義昭様を京でお支えしつつ、幕府に従わない勢力との戦に大忙しであった。

故に、遠く離れた武田家との戦は百害あって一理なしだったわけじゃ。

その為か、武田家が徳川領の侵攻を始めても初めのうちは静観されていた。武田家も同盟国、故に兵を差し向けることはできないとのお考えもあったのであろう。

「第六天魔王」の登場はこの戦いだった!

武田家からしても織田と戦をするつもりは毛頭なかった。織田家は武田家にとって唯一最大の同盟国。先に話した通り北条との戦に加え、北の上杉ともしのぎを削っており、織田家と手切れとなるのは死活問題である。

故に徳川を攻めたものの、織田家への敵意故ではない。むしろ戦が起きれば織田家は武田方となるとすら考えておったようじゃ。

じゃが勿論これは信玄殿の思い込みで、はじめこそ動かなかった信長様も徳川殿に援軍を送り同盟は破綻、敵対関係となる。故に『関東の古豪武田家 対 期待の新勢力織田徳川連合軍』ではなく『徳川と武田の小競り合いが起こした巻き込み事故』と捉えた方が妥当とも言えよう!

いずれにせよ、徳川・武田・織田どの家にとっても得のない難儀な戦であったと言えるやも知れぬな。

因みに信長様と信玄殿は同盟破棄の際に交わした書状にて互いに激しく罵り合った。その時に出たのが『第六天魔王』で現世でもよく知られる信長様の渾名(あだな)である!実はこの名、周りから呼ばれていた名ではなく、罵り合いの中の売り言葉に買い言葉で信長様ご自身が名乗ったものなのじゃ!

徳川殿の「しかみ像」は三方ヶ原の戦いのものではなかった!

三方ヶ原の戦いといえば有名なのが徳川殿のしかみ像である!足を組み険しい顔で睨みつけるようすが描かれており、徳川殿が敗戦の悔しさを忘れることのないように敢えて無様な自分の姿を描かせたとの逸話が残る。

じゃがこの話は後の世の創作で、そもそも三方ヶ原の戦いの時に描かれたものではないことがわかっておるのじゃ。

この絵は江戸時代には長篠の戦いの頃のものとして尾張徳川家が保管しておった。明治昭和と時が流れる中でその憔悴したような険しい顔や出で立ちの説得力から三方ヶ原の戦いと結び付けられていったと言われておる。

このように我らの時代と今の時代では解釈が変わったことが数多ある。然りながらそれをただの誤解と捉えるのではなく「事実とは異なるが、おもしろき逸話」として楽しむのも戦国時代の味わい方であると儂は思う。このしかみ像の逸話はその好例で、このことから向上心の大切さや徳川殿の人間らしさを感じとることができるのではなかろうか。

実際このしかみ像、原本が名古屋の徳川美術館にある他に、これを基にした立体の像が岡崎や浜松に飾られており、徳川殿の失敗談として皆に愛されておることがわかるわな!

終いに

此度は三方ヶ原の裏話を取り上げて参ったが、いかがであったか。

三方ヶ原の戦いは徳川殿にとっての最大の危機であったが、これを凌いだことが大きな飛躍の種となっておる。その飛躍についての詳しい話はこの戦国がたりにてまた話して参ろうではないか!

時代が進み更に面白くなってきた『どうする家康』もこの後の展開が楽しみであるな!

さて、此度の戦国がたりはこれにて終いじゃ。

また会おう、さらばじゃ!!

文・撮影=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)