有名無実の天下人、戦国時代の室町将軍
群雄割拠の戦国時代、それぞれの武将が利権を争っておったが、信長様が室町幕府を滅ぼすまで一応の国主は室町幕府の足利家であった。
そもそも戦国時代は室町幕府の後継者を巡る争い、応仁の乱に端を発する。
長く続いた応仁の乱によって都は荒れ、幕府の求心力が下がったことで家柄に関係なく、力あるものが権力を得るようになった。
この実力主義の時代こそが戦国時代である。
然りながら実質の権力を失ったとはいえ幕府の影響力が皆無となったわけではない。特に戦国中期の室町将軍であった剣豪将軍こと足利義輝様は様々な手段にて幕府の権力回復に努めた。
いかなる工夫をしていたかを知ると、戦国を見るのがさらに楽しくなるであろう!
早速紹介して参ろう。
偏諱(へんき)。半強制的に名付け親に
戦国武将の名前を挙げていくとある漢字をよく目にするやも知れん。
島津義久、武田義信、朝倉義景、上杉輝虎(上杉謙信)、最上義光、伊達輝宗、毛利輝元、尼子義久。
大大名の中にも義の字や輝の字が多く見受けられるのじゃ!
これは全て義輝様より偏諱を賜ったものである。
内容の説明の前に偏諱について簡単に紹介いたそう。
まず我らの名前は一族代々使われる文字『通字』と、そうでない文字『偏諱』の組み合わせで付けられる。
儂の名前で例えると、前田家の通字が『利』で偏諱が『家』じゃ。
そして、主君が家臣の働きへの褒美として名前を与えることがあった。
この事を“偏諱を与える”というのじゃ。
文字通り、各々固有の文字である偏諱を与えることから始まったのじゃが、だんだんと偏諱だけでなく通字を与えることも増えていき、“偏諱を与える”は通字を与えることも示すようになる。
その場合、主君固有の偏諱よりも、その家代々続く通字を与えられることの方が名誉なことであった。
さて、少し小難しい話をしてしもうたが、この知識があると物語に出てくる主君と家臣の関係の深さや繋がりを推し量ることができるようになるで、頭の片隅に置いておくと良いぞ!
話は戻って足利義輝様についてじゃ。
義輝様もこの例に漏れず、偏諱を与えることで力を持った諸大名との関係性を強めて、幕府の権力再興を目指していた。
然りながら偏諱を与えることの目的はただ恩を得ることではなく、早い話が金銭目的であったのじゃ。
偏諱を賜った大名はその礼として高額な金子を献上せねばならぬ。この金子が目的であったんじゃな。
将軍として政務を行うためには言わずもがな銭がかかる。特に義輝様の時代には細川家や三好家と言った実力者によって京を追われ流浪する生活が続いておった為に、京を取り戻すためにも資金繰りは非常に大切なことだったのじゃ。
そこで義輝様は自ら偏諱を諸大名に送りつけたのじゃ!送られた大名家もこれを無碍にはできぬ、強引な手段と言えるが銭と忠誠心の両方を得られる合理的な方法であったとも言えよう。
仲裁役を担った室町幕府
義輝様が権力回復のために行われておったことに、戦の調停が挙げられる。
徳川殿が今川家から独立した折の戦も実は義輝様から和睦の命令が下っておる。
他にも上杉と武田の第三次川中島の戦いや東北伊達家の御家騒動、九州での島津家と大友家の争いなど日ノ本広範な地域の戦にて調停役を務めておられたのじゃ
戦の調停は大大名の戦を止めたことで幕府の健在を世に示すこともできる上に、調停の礼金を諸大名から受け取ることもできる。日ノ本の国主として重要な役割でもあったわけじゃ。
義輝様の権力回復への獅子奮迅の行いは少しずつ結実しつつあり、多くの大名が義輝様を立てるようになっておった。
しかしそんな時に当時の都の支配者である三好家によって暗殺されてしまう。
これは義輝様が三好家の天下を脅かすほどの存在となりつつあったからこその事件であったと言えよう。
その後の室町幕府は再び衰退の一途を辿り、信長様のご献身よって京に返り咲くことはあったものの信長様と敵対し遂に滅亡となる。
鎌倉幕府や江戸幕府と比べると緩やかな終幕を迎える室町幕府ではあるが、戦国時代の変遷を知る上では寛容な存在である。ぜひ覚えていってな!
終いに
さあ!此度は室町幕府、特に13代将軍義輝様について話して参ったがいかがであったか。
義輝様は暗殺された折に諸大名は勿論、朝廷や公家衆、そして民も大いに悲しみ三好の蛮行に憤ったほど皆から好かれた存在であったのじゃ。
さて、大河で登場した足利義昭様は今後どのような描かれ方をするのか。今のところは暗愚な君主のように見えるが、後の展開が楽しみであるな!
義昭様こそ現世での評価が分かれておるお方じゃ。皆もぜひとも注目して見てみると良いぞ!
では此度の戦国がたりはこれにて終い、
さらばじゃ!!
文・写真=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)