豊富な地下水が自噴する盆地
秦野盆地は周囲をぐるっと山々に囲まれている。北側と西側が丹沢の山々、東側が弘法山、南側は渋沢丘陵。そして盆地の中を水無川、金目川などが流れて扇状地を形成している。
丹沢山地に降った雨は地面に染み込み、天然の水がめとなった扇状地に地下水として溜められる。その水量は2.8億t。わかりやすく換算すると、箱根の芦ノ湖の1.5倍だそうだ。
その豊富な地下水は自噴していて、名水百選のひとつ「秦野盆地湧水群」として知られている。
豊かな水と、近くの大山と遠くの富士山に見守られている土地。それは昔から人を引きつける魅力的な土地だった。2万年前から人が住んでいたというから、縄文時代の前から住んでいたというわけだ。そんな昔から人が住みやすい秦野盆地の東の端っこに、名古木(ながぬき)の棚田がある。
よく知られている「名古木の棚田」はこの棚田の南東400mほどのところにある。そこには何度か足を運んだことがあるが、今回訪れた棚田は、自然塾丹沢ドン会というNPO法人のメンバーが再生、保全している棚田である。
車の音がまったくしない別世界
棚田への玄関口は「上原入口」バス停になる。バス通りから右手の道へ入り、下ってから左の道へ。薄暗い森の中を抜けていくと、明るい開けた場所へ出た。畑が広がり、正面にはなにやら人間のような形をしたもの。案山子である。三体の案山子が迎えてくれた。
案山子のあるY字路を左へ曲がり、いったん下って小さな橋を渡る。緩い坂道を上がっていくと、目的地の棚田がみえてきた。
そこは山に囲まれた谷戸のような場所で、上のほうの奥まで田んぼが続いている。近づくと田んぼでは朝早いのに、もう稲刈りが始まっていた。
作業をみていると、誰かが近づいてきた。
「カヤネズミの巣がみつかりましたから、みてください。こっち、こっちですよ」と、いきなり話しかけられた。カヤネズミの巣? 何も準備のできていない頭に、突然のことで何が何だかわからない。
とりあえずその人のあとについて田んぼの中に入っていった。と、稲の隙間に何やら球形の塊。これがカヤネズミの巣だそうだ。イメージが湧く前にその巣をみてもよくわからない。巣は植物の葉を編んで作るようで、巣の大きさから想像するとネズミはかなり小さいのではないか。あとで調べたらなんと大きさは5〜8㎝、重さは五百円玉1枚分。日本最少のネズミで、神奈川県の準絶滅危惧種だそうだ。
いきなりネズミの巣に案内してくれた人は片桐務さん。それもなんと、丹沢ドン会の理事長さんだった。
「活動を始めてからもう30年たちます。最初は丹沢の麓の菩提というところで畑を借りてソバを作ってみました。それから耕作放棄地で藪になっていたこの田んぼを復元してみようじゃないかということで、2002年に開墾をスタートしました」
片桐さんの生まれは新潟県で、秦野に来る前は横浜市に住んでいたそうだ。それから36歳の時に秦野に移り住んだ。もう30年以上前のことになる。どうして秦野に、と聞くと、
「ここは自然に恵まれている土地で、なにより水がおいしいですから」
自然に恵まれた土地、秦野に吸い寄せられた片桐さんは、2万年前に住み着いた人と同じ魅力に引かれたのだ。
棚田の開墾当初には、茨城県の取手市からわざわざ来る人もいたという。
「取手あたりなら、地元にも田んぼがいっぱいあると思うんですけどね。埼玉県から来る人もいました。田んぼがあるからというより、この空間がいいからでしょう。それにいっしょにやる仲間がいるからでしょうか……」
こんな話もある。
目の不自由な人がここを訪れて、半日滞在したという。虫の声や穏やかな風の音などを聞いて過ごし、とても気持ちがよかったそうだ。ここは、めずらしく車の音がまったく聞こえてこない。きっと周りの山々が防音装置になっているのだろう。ここで発する音しか、つまり自然の音しか聞こえないのだ。畑や田んぼで汗を流す魅力も大きいが、それがここにいるだけで気分がいい理由だと思う。
田んぼへ水を引く一本のちいさな沢が流れている。小学生の子どもたちだろうか、3、4人で虫取り網を持って沢の中を歩いたりして遊んでいる。昔よくみたような風景があった。
隠れ棚田は生き物の楽園だった
棚田は山の際まで作られている。そこから下のほうを眺めると、遠くに秦野の市街がみえた。鳥獣対策として田んぼの周りに張ってある網に大きなカマキリがぶら下がっていた。大型のクモやトンボも何匹も見つけた。
2017年から3年かけて、東海大と慶應大の協力を得て、名古木の棚田周辺の自然調査が行われた。結果は植物が252種、動物が586種(クモを除く)も確認されたという。膨大な数である。
隠れ里という言葉に倣えば、ここはまるで“隠れ棚田”のようなところだ。隠れ棚田には、隠れ里と同じようになぜか引きつけられる。それはひとだけではなく、昆虫やカエル、そしてあの日本最少のカヤネズミたちもそうなのだろう。棚田は生き物の集まる楽園になっていた。
近くのもうひとつの棚田へ寄ってみた。こちらはまだ稲刈り前のようで、黄金色した稲穂がたわわに実っていた。誰もいない棚田をみながらひと休みしていると、軽トラックが上がってきた。聞くと近くの人で、丹沢ドン会にも入っているという。
「ほら、あのあまり稲穂が実っていない2枚の田んぼがうちのです。田植えが遅れたので、まだ稲刈りは先です。こちらの田んぼは人力ではなく、コンバインで稲刈りをしています」
勤めがあるので時間をあまりとれないということと、浮いた時間は他の田んぼの手伝いをするという。つまり、棚田をなくしたくないから、みんなで協力して作っているのだそうだ。まるで結(ゆい)のような棚田作りである。
「あそこから見ると棚田の曲線が美しいんですよ。棚田好きはみんな写真をあそこから撮るんです」
どちらの棚田にも、何とかして未来に残したいという思いを感じた。それは貴重な贈り物というしかない。
名古木の棚田(神奈川県秦野市)
【行き方】
小田急小田原線秦野駅北口から神奈川中央交通バス「蓑毛」方面行き9分の「上原入口」下車。
【雑記帳】
名古木の西方、東田原地区にも田んぼが広がっている。「東田原神社前」バス停まで行き、西田原の田んぼから田原ふるさと公園方面へ歩き、東田原の田んぼを通り、名古木方面へ行くコースもおすすめ。田んぼ三昧が可能。
文・写真=清野 明
『散歩の達人』2021年12月号より