1945年~1988年(昭和20~昭和63) 鈴木建設 前史

鈴木建設の平成史をたどるに当たって、まずはその前史から紐解いてみる。

鈴木建設株式会社、その萌芽は終戦直後に垣間見える。軍に召集され西伊豆で本土決戦に備えていた鈴木一之助は、終戦後、焦土と化した国土を目の当たりにする。そのときに沸き上がった

「住む家を失くした人のために、家を建てる」(「釣りバカ18」)

という情熱と気概が創業を決意させた。

その姿勢は

「住みよい国を作るため♪」

という『鈴木建設社歌』(詞:鈴木敏夫、曲:久石讓)のフレーズからも推察できよう。

記録は残っていないが、おそらく当初は小さな工務店として創業したのだろう。そしてその後、仲間たちと鈴木建設を設立したのだが、設立年に関しては以下の2説がある。

○1953年(昭和28)説

「鈴木建設50年の歴史に泥を塗った」

2003年(平成15)、営業三課佐々木課長の発言より(「釣りバカ14」)。

○1957年(昭和32)説

「今、社長を退任されるにあたり、半世紀の歴史を振り返ると……」

2007年(平成19)、鈴木一之助氏会長就任挨拶時、営業三課浜崎伝助の発言より(「釣りバカ18」)。

4年の差こそあれ、まあ、ざっくりそのあたり。東京タワーの完成が1958年(昭和33)だから、まさに本格的に復興が始まろうとしていた時代だ。映画『ALLWAYS 三丁目の夕日』の光景と重なろう。

その後のオリンピック景気や高度経済成長とともに社も躍進し、大手ゼネコンの一角を占める大企業となった。

なお、ハマちゃんは1979(昭和54)年(「釣りバカ2」)もしくは1980(昭和55)年(「釣りバカ8」)あたりの入社と推察される。

閑話休題:鈴木建設の規模は?

さて、本題にいく前に、今日の鈴木建設はどの程度の規模の建設会社なのかを考察してみたい。論拠に用いるのは、シリーズ中に言及された以下2説の従業員数だ。

○6000人説

「後を任せられる人材がいないんだよ。社員6000人とその家族の生活を安心して任せられるヤツがね」(鈴木社長の発言から。「釣りバカ2」1989年)。

○3000人説

「3000人も社員がおりますとね、名前までは……」(鈴木社長の発言から。「釣りバカ9」1997年)。

ん?8年で半減しているぞ?はて、これ如何に。スーさんホラ吹いたか、はたまた大規模リストラをこっそり断行したか。真相は闇の中である。

ともあれ6000人説を採れば、O林、K島、S水、T成、T中のスーパーゼネコン級に次ぐレベル。3000人説を採れば、業界ランク10~15位程度の準大手ゼネコン級とみなされる。いずれにしても、急成長を成し遂げた業界の風雲児。育成枠出身の選手がNPBの打率十傑に名を連ねるようなものだ。

なお「社員、家族あわせて、6000人の生活がかかってますからね」(「釣りバカ5」1992)という鈴木社長の発言もあるが、この説を採ると社員数は2500~3000人ほどか。

1988~1991(昭和63~平成3) 鈴木建設バブルに踊る

鈴木建設が歴史の表舞台に姿を現したのは1988年12月24日。そのわずか15日後に元号が昭和から平成へと変わる。

総合保養地整備法(リゾート法)が制定され(1987年〈昭和62〉)、日経平均株価が史上最高値(1989年〈平成元〉12月29日)を記録するなど、建設業界も日本経済全体も、まだバブル景気に浮かれていた時代だ。

鈴木建設も、

○開発用地の買収(「釣りバカ1」1988年〈昭和63〉)

○マンション建設の推進(「釣りバカ1」1988年〈昭和63〉)

○社会還元事業の展開(「釣りバカ2」1989年〈平成元〉)

など、景気の波に乗り積極的に事業を推し進める。また、現場では好景気による人手不足のためかイラン人労働者の姿も見られた(「釣りバカ4」1991年〈平成3〉)。

同社の得意分野であるリゾート開発も好調で、西伊豆で大規模開発を推進していたが、こちらは地元の反対運動を受けて計画撤回となった「釣りバカ1」1988(昭和63))。一説には、社長の私情が絡んでの撤回だったとも。

思えばこれがバブル景気の終焉の序曲であった。

1992~1993(平成4~平成5) バブル崩壊、スッポンに泣く

そしてその時はやってきた。バブル崩壊である。このインパクトは鈴木建設の業績にも少なからぬ影響を及ぼす。マンションの売り上げ減退、副都心事業の白紙撤回など多くのダメージを被るが(以上「釣りバカ6」1993年〈平成5〉)、その最たるものが「プロジェクトA」の頓挫だ(「釣りバカ5」1992年〈平成4〉)。

「プロジェクトA」……、それはバブル期に買収したものの、バブル崩壊で用途を失った開発用地を農畜産物の栽培養殖事業に転用させようというもの。とかく保守的な鈴木建設としては大胆な発想の転換と言える。

しかし、その起死回生のプロジェクトも業績振るわず敢えなく頓挫。事業の1つ、丹後半島におけるスッポン養殖に至っては、現場担当者の不注意でスッポンが死滅してしまうという事態に。まさに弱り目に祟り目。シーズン最下位であった上に、主力選手がFA移籍してしまう球団のようなものか。

民需の回復が見込めないなら、公共事業の受注で補填したいところだが、そこに思わぬ落とし穴が……。1993年(平成5)から明るみになった全国各地の自治体とゼネコンの贈収賄疑惑である。鈴木建設もまた某自治体知事への贈賄を疑われていた(「釣りバカ6」1993年〈平成5〉)。

マスコミの追及も激しく、なかでも築地新報社のトヨエツ似の記者は執拗に嗅ぎ回る。幸いこの時は事なきを得たようだが、鈴木建設を取り巻く状況は史上最悪であったと言っていい。どうする鈴木社長~。

【鈴木建設社屋探訪 その1】 1993(平成5)~1996(平成8)年頃の鈴木建設本社。中央区京橋1丁目(昭和通り沿いの某大手食品メーカー本社ビル)。釜石市の関係者が講演のお礼に来たのはここ(「釣りバカ6」)。
【鈴木建設社屋探訪 その1】 1993(平成5)~1996(平成8)年頃の鈴木建設本社。中央区京橋1丁目(昭和通り沿いの某大手食品メーカー本社ビル)。釜石市の関係者が講演のお礼に来たのはここ(「釣りバカ6」)。

1994年~1998年(平成6~平成10) 平成大不況と倹約

後に“失われた10年”などと称される平成大不況はまだまだ続く。鈴木建設においては、

○「サンドーム福井」落成(「釣りバカ7」1994年〈平成6〉)

○「磐梯美術館」受注(「釣りバカ8」1996年〈平成8〉)

○「川内市まごころ文学館」受注(「釣りバカ9」1997年〈平成9〉)

○「中丸屋デパート」改築受注(「釣りバカ10」1998年〈平成10〉)

など、公共事業を中心に明るい兆しは散見できるものの、「今や建設業界は生きるか死ぬかの瀬戸際」(by営業三課佐々木課長「釣りバカ10」)というくらいに順調というには程遠い状況。

そのことは、

○電源をこまめにOFF

○文房具節約

(以上「釣りバカS」1994年〈平成6〉)

○ティーパック1人1日1包

○コーヒーメーカー廃止

○冷蔵庫使用禁止

○ウンコ、家でしろ

(以上「釣りバカ8」1996年〈平成8〉)

という末端の職場に課された涙ぐましい節約ルールからもうかがい知れる。は、排便に自由を~。

【鈴木建設社屋探訪 その2】 1997(平成9)~2000(平成12)年頃の鈴木建設本社。港区芝大門1丁目(芝NBFタワー)。この立地じゃハチに船で送ってもらおうにも、付近に着岸できる川が見当たらないぞ。
【鈴木建設社屋探訪 その2】 1997(平成9)~2000(平成12)年頃の鈴木建設本社。港区芝大門1丁目(芝NBFタワー)。この立地じゃハチに船で送ってもらおうにも、付近に着岸できる川が見当たらないぞ。

2000年~2008年(平成12~平成20) 黒船VS日本型経営

そんな窮地から脱するために求められたのは企業の体質改善だ。

鈴木建設でも、これまでの日本型経営から脱却すべく、2000年(平成12)に外資系コンサルティング会社に経営診断を委託する。

その際、コンサルタントから提案されたのは、

○リストラ

○バブル期の事業の見直し

といった点。つまるところ、グローバルスタンダードを突き付けられたのである。まさに平成版黒船の来襲だ。

現場は混乱した。営業三課では、

「ついに始まったか、リストラが」

との声がささやかれ、社長専用車のハイヤー転換案を耳にした運転手は、今後の生活を心配し取り乱す。

しかし鈴木一之助社長は世界標準なるまやかしに対し、「人材こそ企業の宝」と敢然と言い放ち、日本型経営を貫いた。聞け全国の経営者!これが答えだ!これが鈴木一之助だ!

さらには2004年(平成16)にも、コンサルティング会社からのリストラまがいの人事制度案を一蹴した鈴木社長は、雇用の保証を置き土産とし、2007(平成19)年に社長を勇退して会長に就任した(「釣りバカ18」)。

なお、これと前後して鈴木建設では、

○“必要かよ!”な社歌のリニューアル(しかもCMソング調)(「釣りバカ18」2007年〈平成19〉)

○“バブルかよ!”な瀬戸内リゾート開発(結局は中止。「釣りバカ18」2007年〈平成19〉)

○“昭和かよ!”な社員旅行(「釣りバカ19」2008年〈平成20〉)

といった不可解な出来事が目立つ。これを鈴木社長(会長)の求心力の陰りと捉えるのは筆者の邪推だろうか。

【鈴木建設社屋探訪 その3】 2006年(平成18)頃の鈴木建設本社。中央区新川1丁目、隅田川沿い。建物は特定できないが、およそこの辺り。隅田川のベンチでOL姿の石田ゆり子(「釣りバカ17」)と妄想ランチデートを楽しもう!
【鈴木建設社屋探訪 その3】 2006年(平成18)頃の鈴木建設本社。中央区新川1丁目、隅田川沿い。建物は特定できないが、およそこの辺り。隅田川のベンチでOL姿の石田ゆり子(「釣りバカ17」)と妄想ランチデートを楽しもう!

鈴木建設と平成という時代

「雇用に手をつける時は、経営者は辞めなければならない」

2009年(平成21)、鈴木一之助会長は創業者としての遺言を残し、鈴木建設を去る。そして同時に鈴木建設も歴史の表舞台から姿を消す(「釣りバカファイナル」)。つまり鈴木建設は、改元前夜の登場から平成時代31年間のおよそ3分の2を駆け抜けたことになる。

「平成」とは何だったのか。

内平外成(内(うち)平(たひらか)に外(そと)成る)~『史記』五帝本紀~

地平天成(地(ち)平(たひらか)に天(てん)成る)~『書経(偽古文尚書)』~

「平成」は「国の内外、天地とも平和が達成される」という意味だ。

でも実際、鈴木建設にとっては、

外にバブル崩壊、平成大不況、グローバルスタンダード……。

内に、リストラ、節約、経費削減、受注競争、経営革新……。

と、まさに内憂外患。由来とは裏腹に、内も外も波乱に満ちていた時代だった。

鈴木建設を取り巻いたそんな出来事は、同時代を生きた企業人なら少なくとも1つ2つは経験している“平成あるある”だ。それゆえ、この映画は人の共感を呼ぶ。

「釣りバカ」シリーズ。この稀代のホームコメディは、平成という時代の荒波に、時には翻弄され、時には果敢に挑んでいったすべての船乗りたちに捧げるアルバムでもあるのだ。ーーま、甲板からのんきに釣糸を垂らしているだけのハマちゃんはさておき……。

文・撮影=瀬戸信保 イラスト=オギリマサホ

止まらない円安、上がる物価、上がらない賃金……とかく世の中、暗い話題ばかり。そんな浮き世の憂さをスカーッと晴らしてくれるのがコレ!国民的喜劇シリーズ『釣りバカ日誌』!この連載では、「釣りバカ」鑑賞に役立つ基礎知識や、ちょっと役立つかもしれないはみ出し情報、たぶん滅多に役立たないであろうマニアックネタまで、大漁、豊漁、大物も雑魚も盛り合わせで直送します。初回は主人公·ハマちゃんの自宅の所在地がテーマ。どんな釣果が上がるかお楽しみ。とりあえずは元気に歩こうぜー!
「合体」のない「釣りバカ」なんて、「変身」のない「仮面ライダー」のようなもの――。それくらいハマちゃん&みち子さんの「合体」シーンは、「釣りバカ」シリーズにおいて欠かすことのできない情景だ。しかし、そこは夫婦間の禁断の領域。あれこれ詮索するのは野暮とばかりに、これまで多くは語られて来なかった。でもね。だからこそ気になっちゃうのが人の性♡。ハマちゃん&みち子さんの「合体」とはいかなるものか……。イヒヒヒ、興味本位で……、い、いや、真面目に検証してみたい。