中津川が流れる集落

サクラの花が散って周りの木々と同化した4月の末、丹沢の山々に囲まれた神奈川県西部の集落に向かった。

いまはもうない集落の名は、寄村。明治9年(1876)に近隣の七つの村が合併してできた村である。七つの村は萱沼、弥勒寺、土佐原、宇津茂、大寺、中山、虫沢。1955年に松田町と合併し、寄村の名前は消えた。

寄の読み方は「やどりき」。合併当時はバラバラだったようで、やどりぎ、やどろぎなどいろいろだったが、議会で相談して統一したそうだ。

小田急線の新松田駅を出たバスは、山越えして盆地のようなところに下りていく。寄の集落だ。集落の中心を流れる中津川がみえる。川は四十八瀬(しじゅうはっせ)川に注ぐと川音(かわおと)川と名を変え、酒匂(さかわ)川に合流する。

バスは集落の中を走り、終点の寄バス停に着いた。そのまま中津川沿いの道を北上すると、鍋割山近くの雨山峠へ出る。中津川を渡り、西側の大寺から林道を上がっていくと、シダンゴ山へと通じる。

バスを降り、そのどちらでもない東側の宇津茂から土佐原集落へ向かった。この辺には冬に花をつけるロウバイが約2万本あるという。農道を上がっていくと茶畑が広がっていた。周りが山に囲まれた家々をみると、ここはまるで隠れ里のようだ。その里の真ん中を中津川が流れている。もう少し上がると土佐原の集落がみえてきた。

「寄展望台」と手書きの標識が立つ。ここからだと隠れ里の全貌がよくわかる。山々の麓に家が立ち、畑があり川が流れている。しばし見惚れてしまう風景だ。

土佐原集落の手前にある寄展望台から。寄の集落はまさに隠れ里のようにあった。右手の中津川に架かる橋は田代橋、中央奥の山は松田山になる。
土佐原集落の手前にある寄展望台から。寄の集落はまさに隠れ里のようにあった。右手の中津川に架かる橋は田代橋、中央奥の山は松田山になる。

展望台近くにおばあちゃんがふたり。道端に座りこんで休んでいた。

「今日は日差しが強いから、歩くのは大変だね」と、声をかけられた。

「シダンゴ山に来る人が多いけど、私ら、一度も山に登ったこともないし、峠を越えて秦野のほうへ行ったこともないよ」

日常の買い物は子供に任せ、移動販売車も来てくれる。そのときはただ、お年寄りだから足腰も弱っているし、わざわざ町へ出ないのだろうと思っていた。おばあちゃんたちは仲良く並んで、鍬を肩に担いで麓のほうへ下っていった。

花嫁は道志の村から歩いてきた

虫沢の集落内を流れる虫沢川。
虫沢の集落内を流れる虫沢川。

茶畑の中に続く土佐原の遊歩道から再び宇津茂に戻り、バス通りを歩いて虫沢の集落へ通じる田代橋へ向かう。中津川に注ぐ虫沢川沿いを上がっていく。川には堰堤が多く作られているが、これは以前に川が氾濫したからだろう。堰堤はあまり見映えのいいものではないが、流れはとてもきれいだ。これはかなり地元の人の手が入っていると思った。後で知ったが、年4回ほど地元の人が総出で虫沢川の掃除をしているのだそうだ。

小さな沢にどうみても素人が作ったような木製の橋がかかっていた。いい風景だ。虫沢地区ではここに住む人を中心に約10年前に「虫沢古道を守る会」ができた。活動はおもに古道の整備である。

虫沢川に注ぐナノダ沢に架かっていたいまにも流されそうな木製の橋がいい。
虫沢川に注ぐナノダ沢に架かっていたいまにも流されそうな木製の橋がいい。
虫沢古道を守る会の古谷正夫さん(右)と小野肇さん。古谷さんは高校へ毎日山越えして山北駅まで行ったおかげか89歳とはとても思えない若さ。
虫沢古道を守る会の古谷正夫さん(右)と小野肇さん。古谷さんは高校へ毎日山越えして山北駅まで行ったおかげか89歳とはとても思えない若さ。

「初めに手掛けたのは、はなじょろ道の整備です。ここ虫沢からヒネゴ沢沿いの道を上がり乗越(のっこし)へ。山北町の八丁へ下りる古道です。これを通れるようにしたんですよ」と今年で89歳になる古谷さん。この辺では花嫁さんのことをはなじょろさんといい、花嫁が通った道なのでその名がついた。漢字表記では「花女郎道」。

明治末期までその道を通ってきた花嫁はどこからきたのか。じつは山梨県道志村から嫁いできた。今も残る白石峠を越えて山北町へ。かなりの距離だ。寄でも宇津茂地区のほうは玄倉(くろくら)から雨山峠を越えてきたという。どちらにしても遠く、途中で1泊した花嫁もいたようだ。

「花嫁さんはよそからもらうけど、ここは自給自足の村で、昔はなんでも食べましたね。とくにごちそうは、マムシとヒキガエルです。山うさぎも食べたね。動物性たんぱく質は貴重だから。ヒキガエルの太ももは旨いんですよ」(古谷さん)

お米もとれたが、供出で自分たちは食べられなかった。代わりに里芋やサツマイモを食べたそうだ。古谷さんが小学生の頃の話だから、戦前のことになる。

自給自足ができたということは、つまり寄は豊かな土地だということだ。もっといえば、桃源郷のようなところではないか。そう口にすると、

「そう思いますよ、私も。ここはまさに桃源郷ではないですかね」

と、10年前に鎌倉から移住してきた古道を守る会の小野さん。

意地悪く、古谷さんに聞いてみた。

「虫沢を出たいと思ったことは?」

「昔は思ったことがありますよ。でもここは自分が生まれ育ったところだからね。今はそう思うことはありません」

ふと気付いた。寄展望台で出会ったおばあちゃんたちは、足腰が弱いから出ていかないのではなく、必要がないから出ていかないのだ。寄が桃源郷なら、わざわざ町に行くこともないだろう。どこにも行かずに済むおばあちゃんたちは、幸せだ。そして古谷のおじいちゃんも。

戦後に入植した開拓村の現在

虫沢から坂を上がり、峠の反対側にある高松へと向かった。虫沢古道が、曲がりくねった舗装路を直線的に貫いている。この古道も前は荒れていたが、虫沢古道を守る会が整備。峠は尺里(ひさり)峠という。

高松には廃校になった高松分校という木造校舎が残っている。神奈川県ではここが唯一の木造校舎である。正式名称は、山北町立川村小学校高松分校。分校の廃校は2010年。その10年前に訪ねたのが最初。高松山へ登った帰りにたまたま寄ってみたのだった。元気な子供たちが遊びまわっていた。子供たちの顔つきがよかった。いわば昭和の顔つきといったらいいのだろうか。

いまでは珍しくなった木造の高松分校。小学3年生までここで学んだ。神奈川県下、最後の分校だった。
いまでは珍しくなった木造の高松分校。小学3年生までここで学んだ。神奈川県下、最後の分校だった。

高松分校は戦後の食糧増産のために開拓で入植した人たちの子供が通った学校で、入植時期は1953年。開校は1956年で、当時の生徒数は15人。2010年の廃校までの54年間、小学3年生までが通った分校だった。不毛な土地へ入植し、切り拓いてきた開拓農家。最初は掘っ建て小屋にランプという過酷な生活をしながら、食料増産という使命のために汗を流してきたのだ。

高松集落にあった朽ちた建物。入植から約70年の歳月がみえる。
高松集落にあった朽ちた建物。入植から約70年の歳月がみえる。

高松だけではなく、日本全国の不毛な土地で汗は流されてきた。いまに生きる人は感謝するしかないが、その苦労は並大抵のものではないと思う。峠を越えた反対側の寄とは全く違う顔をみせる。

学校に近い家の軒先におばさんがいた。聞くと、この高松分校の卒業生で、今は麓で暮らしているが、時々高松へ上がって来ては農作業をしたり、友達と会ったり。「もう家は三分の二くらいに減りました。酪農の家は一軒だけに。ほとんど勤めに出てます。年に一度、お祭りがあるんですが、コロナ禍で今年も中止。お祭りのときはみんな集まるんですよ。楽しみにしてたんですが、寂しいです」。

分校は高松の人たちの魂のよりどころか。校舎の近くに開校50年を記念したタイムカプセルが埋めてあった。埋設した年は2006年。その4年後に廃校になった。魂の詰まったカプセルは2026年後に発掘される。

寄と高松(神奈川県松田町・山北町)

【行き方】
小田急小田原線新松田駅またはJR御殿場線松田駅から富士急湘南バス「寄」行き25分の終点下車。帰りは「高松山入口」から富士急湘南バス「新松田駅」行き11分の終点下車。時間によってバス便がないときは御殿場線の東山北駅から松田駅へ。所要時間は4分。

【雑記帳】
虫沢の集落から尺里峠へ上がり、高松へ下ってから「高松山入口」バス停に向かうルートと最明寺史跡公園に向かい、新松田駅へ下りるルートがある。高松分校から「高松山入口」バス停へは1時間程度、最明寺ルートを行けば新松田駅までおよそ2時間30分の行程。尺里峠から高松山へ登るには往復で約1時間半。山頂からの展望はよく、富士山や相模湾までみえる。

文・写真=清野 明
『散歩の達人』2021年9月号より