日中に走らない日中線の終点熱塩駅は欧風の駅舎
日中線は本州最後の蒸気機関車牽引列車が走る国鉄線として、会津線(現在の会津鉄道)や只見線と共に鉄道ファンの注目を浴びていました。昭和49(1974)年の蒸気機関車最後の運行まではC11形が受け持ち、末期は乗車や撮影で賑やかだったようです。
そういえば、私がお世話になった主治医も鉄道ファンで、なにぶん日中走らない日中線だから、訪れたときも撮影が大変だったと懐かしんでいました。今は便利なネットの世界があって、当時の写真をUPしているサイトから、なんとなしに雰囲気が掴めます。それらのサイトにはたいてい写っている終点熱塩駅には、欧風の駅舎が写り込んでいて、駅舎はどこかの別荘のようにおしゃれなものでした。欧風の駅舎をはじめ、いくつかの遺構は今も保存されています。今回は熱塩駅をメインに紹介しましょう。写真は特記以外2020年8月24日の訪問がメインです。
熱塩駅は熱塩温泉の最寄り駅でした。そのさらに先には日中温泉と日中ダムがあり、路線名はこの「日中」から命名されたのかと思います。熱塩駅は「日中線記念館」として整備され、近代化遺産に指定されています。
小道の先に赤い屋根が目に飛び込んできました。一部が2階建ての熱塩駅舎です。パッと見た目は戦前に建てられたおしゃれな別荘。正面はすくすく育った木。枝が駅舎を半分覆うように広がり、木陰に赤屋根が映えます。すてきな建物だ。
駅舎入り口は開放的な家の玄関のよう。正面の庇は半円状で、ここが改札口です。左手の待合室は2階分の深い屋根に白枠の窓が三連。壁の腰部分は石が巻かれています。
昔の大学の教授や文豪の先生はこういう家に住んでいたよなぁ……。などとイメージしていると、大学教授の家へ訪問するような気分になってきました。ショパンの曲がどこからとなく聞こえてきそうです。
そんな気分になる駅舎は珍しいですね。熱塩駅舎は尺貫法がまだまだ主流だった時代にメートル法で建てられ、竣工は昭和13(1938)年でした。熱塩駅は終着駅のまま廃止となりましたが、計画では途中駅となる予定でした。
壮大な計画の一部として開通。駅舎の前は庭のようだ
日中線は明治時代、栃木県今市から山形方面へ縦断する「野岩羽(やがんう)線」計画の一部として敷設された路線でした。この計画は会津田島、会津若松、喜多方、日中温泉を結んで米沢へ至る壮大なる東北縦貫線構想であり、日中線はその一部を担って昭和13(1938)年に開通しました。しかし計画は頓挫し、熱塩駅で終着となります。その先は1200m級の深い山々が連なる県境地帯です。現在でこそ、国道121号線が大峠トンネルで貫いていますが、戦前は山々を抜けて米沢に至るのは容易ならざることでした。なお野岩羽線計画の一部は、野岩鉄道、会津鉄道、磐越西線が引き継いでいます。
駅舎は美しく保たれています。待合室内は日中線の資料館となっており、現役時の貴重なものが展示されています。駅舎は地元の方々が管理して美しく保たれており、管理の方は常駐していないですが、資料館は9時から16時まで見学可能とのことです。
改札口を通ります。ホームの先を見やると、おお…… 庭だ。別荘の庭が広がっているぞ。
かつて線路のあった駅構内跡は緑の絨毯となった広場になっていたのです。ホームにはお手製のベンチが並び、手作りブランコもありました。いいなぁ、こういう光景。
ホームのベンチに腰掛け、しばし構内を見つめます。先生の家にお邪魔したような、あるいは別荘でまったりしているような、そんな気分になってくる。それもこれも、この駅舎がかわいらしく、欧風家屋みたいなコンセプトで造られたからでしょうか。
わずか11kmの路線の終点にしては、随分と個性的で力の入った駅舎ですが、米沢への延伸へ向けて、ひとまず仮の終着駅を立派にしようと関係者が考えたのか、メートル法で建築されたことから、“こんな駅舎も造れますよ”とモデルケースにしたのか、理由は想像でしかないですが、この駅舎を眺めていると、いろいろと想像が膨らんできます。
ホームから降りて、遠目に駅舎を見つめみようと、構内はずれから眺めてみます。のどかだ。赤い屋根の駅舎が、ますますおしゃれな家にしか見えない。駅舎前には芝生。今まで様々な廃線跡の駅舎を訪れてきましたが、熱塩駅は群を抜いて美しく感じました。これも、地元の方々が丁寧に熱塩駅を管理されているからこそでしょう。
庭のような構内には2両の保存車両がいる
終点熱塩駅は保存車両もあります。雪掻き車(ラッセル車)のキ100形とオハフ61形客車です。保存車両は鍵が開いていたら車内見学が可能で、往時の雰囲気を肌で感じることができます。駅舎内に管理の方がいらっしゃったら、一言お声がけしてください。
オハフ61形は旧型客車と呼ばれる3等車両(普通車)で、長距離列車にも使用されていました。日中線では、蒸気機関車やディーゼル機関車に牽かれて走っていた車両です。車内は木の背もたれがズラッと並ぶボックス席。金具ではなく網で編まれた網棚。午後の陽光が差し込んで浮かび上がる床板の木目。郷愁。その一言に包まれていました。
しばし青いモケットのシートに腰を沈め、木の背もたれに身を委ねます。ゴツゴツしていて、とてもじゃないけれど長時間背中を預けたら痛くなりそうですが、昔日の長距離列車普通車は、車両によってはこのような座席で一昼夜走っていたのです。私はミャンマー国鉄の3等車でこの状態の長距離列車を経験したけれど、降りた時の背中はバキバキに固まっていました。
キ100形の車内も入れます。キ100形は除雪車両で、自走タイプではないために機関車の後押しが必要です。国鉄車両の扱いでは事業用貨車でした。昭和初期から戦後しばらくまで製造され、現在では青森県の弘南鉄道と津軽鉄道に動態で在籍しており、たまに稼働します。
キ100形は単線用ラッセル車で、前面は船首のように深いV字状となり、両側面に備わるウイングと呼ぶ除雪板を迫り出して雪を掻きます。外観で魚のエラっぽく出ているのがソレです。
ウイングは空気シリンダで動くのですが、その可動部のメカニズムが車内に入ると分かります。奥は一段高くなった操縦席で、雪を掻くための装備がぎっしり詰まっており、滅多に見ることができない働く車両の内部をつぶさに観察できるのです。
別荘のような駅舎と保存車両を堪能しました。後半は熱塩駅から喜多方へ向けて、日中線の廃線跡を辿ります。
取材・文・撮影=吉永陽一