小野先生
小野正弘 先生
国語学者。明治大学文学部教授。「三省堂現代新国語辞典 第六版」の編集主幹。専門は、日本語の歴史(語彙・文字・意味)。

以心伝心の文化を反映することば

小野先生 : 「それを言っちゃあ、おしまいよ」は、寅さんの代表的なセリフ。コミュニケーション論的に見ると、とてもおもしろい表現ですね。

筆者 : 大好きなセリフですが、ひとこと聞いただけでは、何がどう「おしまい」なのか、よくわからないですよね。

小野先生 : 私たちの日常生活では、例えばこんな使われ方をしますね。
ある飲み会に参加するA、B、Cの3人――

A「(内心)こんなところに来たくなかった、時間の無駄だ」

B「(内心)Aは、こんなところに来たくなかったろうな」

C→A「おい、参加するならもっと盛り上げてくれよ」

A→C「別に来たくて来てるんじゃねえ、付き合いで来てるんだ!」

B→A「おいおい、それを言ったらおしまいだよ」

「付き合いで飲み会に参加しただけ」というのが、AとBの暗黙の了解です。おそらく、Cもそのことはうすうすわかってはいるのでしょうが、場の雰囲気づくりに協力しないことが不満です。
Bは、互いに黙っているはずのことを、Cが我慢できず口に出してしまったことをたしなめたのです。

筆者 : Aが「来たくて来てるんじゃねえ」といった時点で、これまで本音を口に出さないことで保ってきたABCの関係が「おしまい」になってしまったわけですね。

小野先生 : 明らかに分かっていることでも、やたら口に出さないことをよしとする「以心伝心」の文化を反映しています。

哀しくもあたたかい寅さんの「それを言っちゃあ、おしまいよ」

筆者 : 映画「男はつらいよ」では、寅さんの自分勝手な言動に、堪忍袋の緒が切れたおいちゃんが、「お前がいると迷惑だ」などと、本音を口にしてしまいます。寅さんは「それを言っちゃあ、おしまいだよ」と吐き捨てて、家を出ていくと、だいたいこのような流れです。
寅さんにとっては、故郷で家族と暮らすという幸せな非日常から、寂しく過酷な旅ぐらしの日常へ戻っていくひとこと。物語を動かす重要なセリフです。

小野先生 : 寅さんと家族との暮らしは、いわば「虚構」の上に成り立っています。
叔父叔母であるおいちゃん、おばちゃん、妹のさくらとその夫の博は、寅さんの帰郷に、内心は少なからず戸惑っています。また、寅さん自身も、自分が家族との暮らしに安住できず、迷惑もかけていることを、良く知っています。
でも、家族は心から歓迎する姿を演じ、寅さんもそれに乗じて、ときには所帯を持つ素振りを見せたりもします。
結局は寅さん自らトラブルを起こし、かろうじて保たれてきた虚構を崩してしまうのです。

筆者 : なるほど。「それを言っちゃあ、おしまいだよ」は、みんながそれとわかってつくってきた虚構を、壊してしまうことばなのですね。そう考えると、ケンカ別れで旅に出る寅さんの「男はつらいよ」な感じが、より真に迫ってきます。
けれど、虚構が壊れて終わらないのが救いでもあります。失恋した寅さんの姿を見て、おいちゃんやおばちゃんが涙ぐんだり、家族のつながりが回復し、そしてまた虚構が築かれるのだと。

小野先生 : 根底には愛情があるのですね。裏返せば、そんな間柄でも良好な関係を保つには、暗黙の了解で言わないこと、虚構を保つことが必要だということ。「それを言っちゃあ、おしまいだよ」は、「あえて口に出さない」ことの知恵と優しさを思い出させてくれることばです。

まとめ

暗黙の了解を口に出してしまうことで、人間関係が崩れてしまうことがある。「それを言っちゃあ、おしまいだよ」は、明らかに分かっていることでも、やたら口に出さないことをよしとする「以心伝心」の文化を反映することばだ。

映画「男はつらいよ」では、寅さんとおいちゃんのケンカのシーンで登場。帰ってこられては迷惑、というおいちゃんの本音を聞いた寅さんが「それを言っちゃあ、おしまいだよ」と家を出ていってしまう。

家族の間でもあえて口に出さない暗黙の了解が必要。人間関係を保つ知恵だ。

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