公園の雑木林に残る採石場の痕跡、導水管の上にある自転車道は廃線跡
軽便鉄道は最初、村山貯水池建設の資材運搬として敷設され、1924(大正13)年に多摩川の「羽村の堰」から村山貯水池へと導水管が完成します。その後、隣接して山口貯水池を建設する際、地中に埋まっている導水管の上に線路を敷設しました。線路は二度敷設したことになりますが、工事用軌道ということもあって詳細はいまいち判明しません。
羽村山口軽便鉄道は正式名称ではく、現役時代は水道局の軽便鉄道と言われていたとか。戦争末期に廃線となって、廃線跡は放置されていましたが、現在は自転車道として市民の足となっています。
ハイライトは武蔵野の谷戸地形の、4箇所のトンネルです。
今回は最初のトンネルまで、次回は残りのトンネルを紹介しましょう。
訪れたのは2021年の初夏。いや、初夏というには日差しが強すぎ、汗も噴き出る6月の空梅雨でした。
西武立川駅を降りてバスに揺られ、三ツ藤バス停を降りて、暑い暑いとひとりごとを呟きながら残堀(ざんぼり)川沿いを歩きます。前方に緑がこんもりと茂るのが見えました。山王森公園です。
ここに来たのは、軽便鉄道時代の遺構が少し残っているからです。遺構は公園の雑木林の中にあります。目を凝らすと、コンクリートの土台がいくつか確認できます。ここには残堀採石場がありました。多摩川から採取された砂利をトロッコに積み、小さな蒸気機関車やガソリン機関車がトロッコを牽引し、真っ直ぐと東方向へ伸びた線路を走ってきたのです。
砕石場は木製の桟橋があり、桟橋上に敷かれた線路にトロッコが止まって、上から下へと砂利を落下させて選別作業を行っていたようです。残されたコンクリート土台は、桟橋の一部分か、選別作業の施設かと思われます。
ところで、軽便鉄道は導水管の上に沿っていたから直線でした。導水管は現在も活躍しており、起点の羽村から採石場跡までは直線の自転車道や道路となって点在しています。その直線がすなわち廃線跡となります。
ただ、今回途中から巡ろうとしたのは、痕跡が直線の道路以外に無いこと、途中に米軍横田基地の滑走路があって痕跡が途絶えることから、砕石場からスタートしました。
あと、蒸し暑かったから最短にしようという邪な考えが勝ったためでした(笑)
いかにも廃線跡らしい自転車道を進むとぽっかりとトンネルの口が開いている
自転車道を東へ進みましょう。名称は「野山北公園自転車道」です。廃線跡が自転車道へ再生された例は多々あり、ここも典型的な自転車道再生廃線跡といったところ。
並木道となった長細い敷地が先へと進み、途中で左カーブするところなど、いかにも鉄道のカーブらしい緩やかな弧を描いています。
工事軽便鉄道は70年以上前に廃線となりましたが、こうやって痕跡を辿れるのは奇跡と思えます。70年の間に区画整備されて、痕跡が途絶える例は山ほどあります。この軌道に関しては、地下に羽村の堰から取水した多摩川の水が通る導水管が埋まっており、軌道なき後も道路か歩道にせざるを得なかったのでしょう。自転車道として再生されるのは必然だったのかもしれません。
軽便鉄道廃線跡の醍醐味、連続トンネル区間
「暑い暑い、蒸し暑い(泣)」としかめっ面で、都道55号線との交差点へ到着しました。夏前の蒸し暑さは体にコタエマス。
さて、ここからがこの廃線跡の醍醐味です。交差点の先には小さなトンネルがポッカリと口を開けているのです。周囲は谷戸で、丘陵が入り組んでいます。その斜面に「横田トンネル 自転車道」と、自転車道だけ斜体文字で記された軽便鉄道のトンネルがあるのです。トンネルは自由に往来でき、上部にシャッターが備わっていて、夜間はシャッターが閉まるとのことです。
トンネルに入ればこの蒸し暑さともおさらば! 信号が変わって勇み足で中へ……と、その前に入り口を観察します。抗口(ポータル)はコンクリート製、馬蹄型の断面をしていて、アーチを囲む迫石(せりいし)があって、シャッターで隠れているけれど、上部には要石があり、これらはコンクリートブロックと思われます。のっぺらとしたトンネル断面ではなく、安直な言葉になるけれど少々レトロな構えとなっているところに興味が湧きます。トンネルは1928年頃に建設されたらしいので、その古さも際立って見えてきます。
では中へと入りましょう。
いやぁ、涼しい! トンネル内部は一気にひんやりしてきました。これからの夏場は天国ですね。ここから出たくない(笑)
自転車道として整備されているだけあって照明も点灯しており、真っ暗闇ではありません。ただ、意外と自転車の往来が多く、ぼーっと観察していると邪魔になりますのでご注意を。
次回は横田トンネルを出た先をレポートします。
取材・文・撮影=吉永陽一