頼朝が完敗した地は想像以上に険しい
治承4年(1180)8月17日、山木兼隆らを討ち果たした頼朝軍は、伊豆の韮山を後にすると日金山を越え、23日には相模国の真鶴岬付近の石橋山で野営することとなった。兵力はわずか300騎。その日の夜には大雨に見舞われてしまう。同刻、谷ひとつ隔てた場所には3000騎を率いた平家方の大庭景親が布陣、さらに頼朝軍の背後には伊東祐親に率いられた300騎も迫っていた。
そしてこの時、頼朝方が頼りにしていた三浦義澄の軍は、雨で増水した酒匂川を越えられずにいた。
それを知った大庭は、日没が迫っていたにもかかわらず頼朝軍に攻撃を仕掛けることを決する。こうして石橋山を舞台とした死闘が、繰り広げられたのだ。
頼朝軍が大庭・伊東連合軍と激突した相模国の石橋山古戦場は、現在は神奈川県小田原市に含まれている。最寄りの駅は東海道本線の早川もしくは根府川だ。地図上はどちらの駅からでも同じくらいの距離だが、根府川駅からは道が複雑で、しかもアップダウンが多い。早川駅からの道の方が圧倒的に歩きやすく、おすすめだ。
駅前ロータリーから住宅街を抜ける旧道を辿り、熱海方面を目指す。紀伊宮下バス停付近で国道135号線とぶつかり、しばらくは海に面した国道をひたすら南下。20分ほど歩いたところで、右側の斜面へと続く細い道を登っていく。入り口には「石橋山古戦場」を示す小さな案内板があった。
みかん畑へと続く細い道を少し登ると、左側には相模湾がドーンと広がる。ふくや旅館前のT字路を右に登ると、道は東海道本線の線路脇に出た。トンネルの上で線路を跨ぐと、すぐに「佐奈田霊社」との分岐が現れる。この社には、相模の名族三浦党の若武者、真田(佐奈田)与一義忠が祀られているのだ。
当時、25歳であった与一は、父の岡崎四郎義実とともに頼朝軍として参戦。そしてわずか15騎で、大庭景親の弟・俣野五郎景久率いる75騎と激突した。最後は両将による組討ちとなり、与一が勝って見事に俣野を組み伏せた。ところが与一は血が付いたまま刀を鞘に収めていたため、血が固まって抜けずに手間取っていたところ、駆けつけた俣野の郎党に討ち取られてしまったのだ。
後にその武勇を惜しんだ人々により、与一が討死した地に塚が築かれた。さらに与一を祭神とする、佐奈田霊社が建てられたのだという。それにしても、辺りはみかん畑になるほどの急斜面。頼朝は寡兵であった自軍に有利になるよう、このような場所に布陣したのであろう。しかし雨の夜、この斜面を上り下りして戦うことになった将兵には、まさに地獄であったと思われる。
この社はさほど広くはないが、山の斜面に建てられているうえ、東側は相模湾に面しているためとても気持ちがいい。本堂のほぼ正面にある与一塚で手を合わせた後、そのまま南東側へ降りる階段を辿ると、文三堂へと続く道に出る。
これは与一の郎党であった文三家安が祀られているお堂だ。文三は主人の与一が討死した事を知ると、群がる敵陣に飛び込み8人の敵を討ち取るも、最期は主人の後を追うように壮絶な討死を遂げている。
『吾妻鏡』には、頼朝は鎌倉を中心とした武家政権を確立した後の建久元年(1190)、伊豆山権現(現伊豆山神社)に参詣。その帰路、佐奈田与一と文三家安の墓を訪れ、落涙したと記されている。
いくつもの幸運に救われた源氏の頭領
参戦した将兵の善戦もむなしく、24日の黎明どきになると頼朝軍は総崩れとなった。そして頼朝主従は、わずか8名で山中を逃れるはめになる。
しかしその中に、湯河原近辺を領有していた土肥実平・遠平父子がいたのは、頼朝にとってこの上なく幸運であった。
土地をよく知る土肥父子の案内で、洞窟や大木の洞に隠れて敵の追跡をかわし、箱根権現(現箱根神社)を目指す。その途中、椙山(すぎやま)という所にあった巌窟に潜んでいた一行は、大庭方として参戦していた梶原景時に発見されてしまう。
ところが景時は、他の追手に「ここには誰もいない」と伝えて、別の場所に向かうように仕向けてくれた。おかげで頼朝一行は箱根権現に逃れ、状況が少し落ち着いたのを見計らい、実平が手配した小舟で真鶴岬の浜から安房国(現在の千葉県)に渡った。この時も舟が漕ぎ出した直後、追手に見つかってしまう。槍を携えた人が乗っているのを怪しんだ追手は、村民に「誰が乗る舟か」と、尋ねた。すると村民は「鮫を追う舟」と嘘をついたと伝えられている。
このように地の利を知り尽くした人物が味方にいたこと、敵の中にも頼朝に心を寄せる者がいたことなど、いくつもの幸運が重なり、頼朝は九死に一生を得た。ということで、次はいくつもの奇跡を生んだ地に足を運んだ。
昼でも暗い山中に残された神秘的な洞窟
頼朝一行が潜んでいた「しとどの窟(いわや)=土肥椙山巌窟」へは、以前は休日のみではあったがバスで近くまで行くことができた。ところがコロナ蔓延以後、しとどの窟の入り口を経由するバスは完全に運休になってしまったのだ。
最寄りの湯河原駅から徒歩で向かう場合、城山山頂までのハイキングコースを1時間ほど歩き、そこからさらに30分ほど山道を辿ることになる。さもなければ、バス停があった場所にある無料の駐車場までクルマで向かい、そこから20分ほど歩く。今回は時間的制約もあり、後者のコースを選ぶことにした。
駐車場からしばらくは、平坦な舗装路を歩く。城山隧道(ずいどう)を抜けると、右側が広場のようになっていて、その端からいよいよ山道が始まった。「しとどの窟まで四百米」と記された石碑が入り口の目印。そこから転げ落ちるような急坂を下って行く。道の両側には石仏がズラリと並んでいて、昼でも薄気味悪い。
膝が笑い出しそうになった頃、ようやく「しとどの窟」への分岐が現れた。そこから少し登ると、岩壁がぽっかりと口を開けたような洞窟が現れる。流れ落ちる湧水、洞窟内に立ち並ぶ観音様や石塔、どれも近寄りがたい雰囲気を醸し出している。頼朝一行がいかにも潜んでいたのだという趣を、今も感じる。
しばし不思議な空気感に酔いしれた後、今度は心臓破りの上り坂となった山道を、喘ぎながらひたすら登って行った。体力と時間に余裕があれば、真鶴駅から徒歩で20分ほどの、岩海岸も訪れてみよう。きれいな弓状の小さな砂浜で、舟を出すのに向いている。それでいて、急斜面を下った場所にあるので目立たない理想的な浜だ。頼朝ら7人は8月28日、ここから安房に向かい海に漕ぎ出している。ちなみに一人減ったのは土肥実平の嫡男土肥遠平だと伝わっている。遠平は伊豆山権現の政子の元に頼朝の無事を伝えに駆けたとも、頼朝の祖父の為義が8人で九州に落ち延びた過去があり、それを嫌った頼朝が遠平を下船させたとも言われているようだ。
頼朝と政子のロマンスも伝わる社へ
そしてもう1カ所訪れておきたいのが、頼朝が源氏再興を祈願したことで知られる伊豆山神社(権現)だ。最寄りの熱海駅からは2kmちょっとの距離だが、山の中腹にあるうえにアップダウンが激しい車道を歩くことになるので、バスを利用するのがおすすめ。
駅前のバス乗り場で「七尾団地循環・伊豆山循環」に乗車すれば、約8分で「伊豆山神社前」に到着。そこから境内までは189段の石段を辿る。しかし石段は、遥か下の伊豆山浜から続いている。もともと信仰の対象であった、海岸に沿って温泉が走るが如く湧き出す「走り湯」から本殿まで、837段もの石段が続いているのだ。足に自信がある方は、下から登ってみるのもいいだろう。
伊豆山神社の創建は、社伝によれば孝昭天皇の時代(紀元前5世紀〜紀元前4世紀頃)とされる。最初は日金山山上にあったが、承和3年(836)、現在の地に遷座された。
伊豆山神社は、頼朝と伊豆の小豪族の娘であった北条政子との、逢瀬の場としても知られている。今も境内には「頼朝・政子腰掛け石」が残されていて、縁結びのご利益があると人気。その後、石橋山の戦いに臨んだ際に、妻となった政子らをここに預けている。
山の中腹に位置するため、相模湾の素晴らしい眺望が楽しめるのもこの神社の魅力。天気が良い日ならば、青い海に浮かぶ初島や大島がはっきりと見えるのだ。
そんな眼福を堪能した後は、熱海市内にいくつもある温泉銭湯で汗を流して帰るのも悪くないだろう。
次回は鎌倉殿を支えた御家人の中で、一番の実力者と謳われながら不幸な最期を遂げた上総介広常に関連する地を巡ってみたい。
取材・文・撮影=野田伊豆守