ダンディな店主が揚げる天ぷらのおいしい音が響く、カウンター席のみの小さなお店
店頭の丼の絵の先の白い暖簾がかかる引き戸を開けると、そこには厨房側とその背面の壁側に設えたカウンターに8つのイスが並ぶ。そう広くはないが、中央にスペースがとられ、ゆったりとくつろげる雰囲気の店内だ。
すでにランチタイムのピークが過ぎた店内にお客さんはなく、今日は貸し切りだ。厨房側の席に座り、特上天丸天丼を注文する。
厨房から天ぷらを揚げる音が聞こえてくる。「ジュワ―ッ」(天ぷら鍋にネタを投入!)、「パチパチッ」(揚がってる、揚がってる!)、「シュワシュワシュワッ」(引き上げ時だ!)。リズミカルで耳に心地よい音。おいしいものは、音までおいしい。
「お待たせしました。はい、どうぞ~」と、カウンターに運ばれてきた丼からは、大きなアナゴの天ぷらが横一文字にはみ出している。
揚げたての天ぷらの香ばしい香りと、ごはんにしみたタレの甘い匂いがひとつになって鼻をくすぐる。まずは呼吸で目の前のごちそうを味わった。
天丼屋さんらしからぬ洒落たお酒を店主に進められ、ついランチ呑み
パリッと揚がった海苔から、まずはひと口。ゴマ油の香ばしさと磯の香りが口に広がり、しあわせ気分ボルテージのメモリが3つほど上がる。タレの絡まるごはんをほおばったところで、店主に意外なものをおすすめされた。
「うちは女性の方が結構多いんですよ。それでこのシェリー酒をおすすめしてて。シェリー酒と天ぷらがすごく相性よくてね。もしよかったら、いかがですか?」。
シェリー酒!! お酒もソコソコ飲む筆者であるが、これはまだ飲んだことがない。シェリー酒って、ちょっと高級でおしゃれなバーでアンニュイに飲むお酒では⁉ と思いながら、その響きに「ぜひ!」と即答していた。ランチだよ、まだ昼だよ。でも、まあいいか(心の声)。
「以前は日本酒も置いてたんだけど、今はこっちに切り換えちゃったんです」という。ほかにアルコールは瓶ビールとハイボール、酎ハイもあるが、ほとんどのお客さんがシェリー酒を飲むからというのがその理由。
「口の中がさっぱりするでしょ」と店主。なるほど、ドライでスッキリとした飲み口のシェリー酒は、天ぷらの油を中和してさっぱりとした後味にしてくれる。天丼とシェリー酒のペアリング。むちゃくちゃ、悪くない!
映画のワンシーンのようにシェリー酒を高級バーで気どって飲むのは憧れだが、シェリー酒を初体験するのが天丼屋さんというのも乙なものだ。好物の天丼と少しアルコール度数高めのシェリー酒で、先ほど上がったしあわせ気分ボルテージのメモリはもうMAXだ。いや、すでに振り切っている。ほろ酔い気分のおまけ付きだ。
カフェオーナーだった店主が、1人でのんびり天ぷら屋をオープン
実は都心の商業施設の中にあるカフェのオーナーだったという店主。それがなぜ、戸越で天丼屋をすることになったのか。
「ウチの母がもともと天ぷら屋をやってて、結構職人さんがいっぱいいたんです。それで若いころ、大学の時にお店を手伝って仕事を覚えて。学校を出てからは天ぷら屋にはタッチしないでカフェをやってたんだけど、365日休めない。若い人もいっぱい使ってて、疲れちゃった。それで1人でのんびりやりたくて」と神田さん。
神田さんは湯島の出身だが、戸越にお店を出すことになったのは、たまたま知り合いから居ぬきで空いてるこの場所をすすめられたから。「内装もあんまりいじらなくてもよかったし、1人でやるにはいいかなと思って」と、人を使わなくてもできる広さのここに決めた神田さん。
夜には天ぷら盛り合わせとビール小瓶かレモンサワー、ウーロンハイのいずれかをセットにした晩酌セット1000円もある。神田さんの醸す包容力のある大人な雰囲気のこのお店は、女性1人でも気負いなく寄れる。
その外観と天丼、シェリー酒などの正直ちぐはぐとも思えた組み合わせがなぜしっくりくるのか、店主の神田さんとお話をしながら天丼とシェリー酒を終えるころには、その答えが分かった気がする。また来よう。次もやっぱり1人で。とっておきの場所が見つかった。
取材・文・撮影=京澤洋子(アート・サプライ)